が猟夫を見ると必ず逃げ出した、という事実に就いて私は、いま考えてみたい。彼女の接眼の材料は、兎の目である。おそらくは病院にて飼養して在った家兎にちがいない。家兎は、猟夫を恐怖する筈はない。猟夫を、見たことさえないだろう。山中に住む野兎ならば、あるいは猟夫の油断ならざる所以《ゆえん》のものを知っていて、之を敬遠するのも亦《また》当然と考えられるのであるが、まさか博士は、わざわざ山中深くわけいり、野生の兎を汗だくで捕獲し、以て実験に供したわけでは無いと思う。病院にて飼養されて在った家兎にちがいない。未だかつて猟夫を見たことも無い、その兎の目が、なぜ急に、猟夫を識別し、之を恐怖するようになったか。ここに些少《さしょう》の問題が在る。
 なに、答案は簡単である。猟夫を恐怖したのは、兎の目では無くして、その兎の目を保有していた彼女である。兎の目は何も知らない。けれども、兎の目を保有していた彼女は、猟夫の職業の性質を知っていた。兎の目を宿さぬ以前から、猟夫の残虐《ざんぎゃく》な性質に就いては聞いて知っていたのである。おそらくは、彼女の家の近所に、たくみな猟夫が住んでいてその猟夫は殊にも野兎捕獲の名
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