感触の過敏が、氾濫《はんらん》して収拾できぬ触覚が、このような二、三の事実からでも、はっきりと例証できるのである。或る映画女優は、色を白くする為に、烏賊《いか》のさしみを、せっせとたべているそうである。あくまで之を摂取《せっしゅ》すれば、烏賊の細胞が彼女の肉体の細胞と同化し、柔軟、透明の白色の肌を確保するに到るであろうという、愚かな迷信である。けれども、不愉快なことには、彼女は、その試みに成功したという風聞がある。もう、ここに到っては、なにがなんだかわからない。女性を、あわれと思うより致しかたがない。
なんにでもなれるのである。北方の燈台守の細君が、燈台に打ち当って死ぬ鴎《かもめ》の羽毛でもって、小さい白いチョッキを作り、貞淑《ていしゅく》な可愛い細君であったのに、そのチョッキを着物の下に着込んでから、急に落ち着きを失い、その性格に卑しい浮遊性を帯び、夫の同僚といまわしい関係を結び、ついには冬の一夜、燈台の頂上から、鳥の翼の如く両腕をひろげて岩を噛《か》む怒濤めがけて身を躍らせたという外国の物語があるけれども、この細君も、みずからすすんで、かなしい鴎の化身となってしまったのであろう。なんとも、悲惨のことである。日本でも、むかしから、猫が老婆に化けて、お家騒動を起す例が、二、三にとどまらず語り伝えられている。けれども、あれも亦、考えてみると、猫が老婆に化けたのでは無く老婆が狂って猫に化けてしまったのにちがいない。無慙《むざん》の姿である。耳にちょっと触れると、ぴくっとその老婆の耳が、動くそうではないか。油揚を好み、鼠を食すというのもあながち、誇張では無いかも知れない。女性の細胞は、全く容易に、動物のそれに化することが、できるものなのである。話が、だんだん陰鬱になって、いやであるが、私はこのごろ人魚というものの、実在性に就いて深く考えているのである。人魚は、古来かならず女性である。男の人魚というものは、未だその出現のことを聞かない。かならず、女性に限るようである。ここに解決のヒントがある。私は、こうでは無いかと思う。一夜彼女が非常に巨大の無気味の魚を、たしなみを忘れて食い尽し、あとでなんだかその魚の姿が心に残る。女性の心に深く残るということは、すなわちそろそろ、肉体の細胞の変化がはじまっている証拠なのである。たちまち加速度を以て、胸焼きこげるほどに海辺を恋い、足袋《た
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