言語その外の一切の物を忘れてしまうように、女房は過去の生活を忘れてしまったものらしい。
女房は市へ護送せられて予審に掛かった。そこで未決檻《みけつかん》に入れられてから、女房は監獄長や、判事や、警察医や僧侶に、繰り返して、切に頼み込んで、これまで夫としていた男に衝《つ》き合せずに置いて貰う事にした。そればかりでは無い。その男の面会に来ぬようにして貰った。それから色色な秘密らしい口供《こうきょう》をしたり、又わざと矛盾する口供をしたりして、予審を二三週間長引かせた。その口供が故意にしたのであったと云う事は、後になって分かった。
或る夕方、女房は檻房《かんぼう》の床の上に倒れて死んでいた。それを見附けて、女の押丁《おうてい》が抱いて寝台の上に寝かした。その時女房の体が、着物だけの目方しかないのに驚いた。女房は小鳥が羽の生えた儘《まま》で死ぬように、その着物を着た儘で死んだのである。跡から取調べたり、周囲の人を訊問して見たりすると、女房は檻房に入れられてから、絶食して死んだのであった。渡された食物を食わぬと思われたり、又無理に食わせられたりすまいと思って、人の見る前では呑み込んで、直ぐそ
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