師の結婚」という小説です。私も、そのうち読ませていただくつもりですけれど、天才の在るおかたは羨やましいですね。この部屋は、少し暑過ぎますね。私はこの部屋がきらいなんですよ。窓を開けましょう。さぞ、おいやでしょうね。
 ――何を申し上げればいいのでしょう。
 ――いいえ、そういうわけじゃ無いんです。私は、そんな、失礼な事は考えて居りません。お互い、このとしになると、世の中が馬鹿げて見えて来ますね。どうだっていいんです。お互い、弱い者同士ですものね。馬鹿げていますよ。私は、この裁判所と自宅との間を往復して、ただ並木路を往復して歩いて、ふと気がついたら二十年経っていました。いちどは冒険を。いいえ、あなたのことじゃ無いんです。いろいろの事がありましたものね。おや、聞えますね。囚人たちの唱歌ですよ。シオンのむすめ、……
 ――語れかし!
 ――わが愛の君に。私は讃美歌をさえ忘れてしまいました。いいえ、そういう謎《なぞ》のつもりでは無かったのです。あなたから、何もお伺《うかが》いしようと思いません。そんなに気を廻さないで下さい。どうも、私も、きょうはなんだか、いやになりました。もう、止しにしましょうか。
 ――そうお願いできれば、……
 ――ふん。あなたを罰する法律が無いので、いやになったのですよ。お帰りなさい。
 ――ありがとう存じます。
 ――あ、ちょっと。一つだけ、お伺いします。奥さんが殺されて、女学生が勝った場合は、どうなりますか?
 ――どうもこうもなりません。そいつは残った弾丸で、私をも撃ち殺したでしょう。
 ――ご存じですね。奥さんは、すると、あなたの命の恩人ということになりますね。
 ――女房は、可愛げの無い女です。好んで犠牲になったのです。エゴイストです。
 ――もう一つお伺いします。あなたは、どちらの死を望みましたか? あなたは、隠れて見ていましたね。旅行していたというのは嘘ですね。あの前夜も、女学生の下宿に訪ねて行きましたね。あなたは、どちらの死を望んでいたのですか? 奥さんでしょうね。
 ――いいえ、私は、(と芸術家は威厳のある声で言いました。)どちらも生きてくれ、と念じていました。
 ――そうです。それでいいのです。私はあなたの、今の言葉だけを信頼します。(と検事は、はじめて白い歯を出して微笑《ほほえ》み、芸術家の肩をそっと叩いて、)そうで無ければ、私は今すぐあなたを、未決檻に送るつもりでいたのですよ。殺人|幇助《ほうじょ》という立派な罪名があります。
 以上は、かの芸術家と、いやらしく老獪《ろうかい》な検事との一問一答の内容でありますが、ただ、これだけでは私も諸君も不満であります。「いいえ、私は、どちらも生きてくれ、と念じていました。」という一言を信じて、検事は、この男を無罪放免という事にした様子でありますが、私たちの心の中に住んでいる小さい検事は、なかなか疑い深くて、とてもこの男を易々と放免することが出来ないのであります。この男は、予審の検事を、だましたのではないでしょうか。「どちらも生きてくれ、と念じていました。」というのは、嘘ではないか。この男は、あの決闘のとき、白樺の木の蔭に隠れて、ああ、どっちも死ね! 両方死ね、いやいや、女房だけ死ね! 女房を殺してくれ、と全身に油汗を流して念じていた瞬間が、在ったじゃないか。確かに在った。この男は、あれを忘れているのであろうか。或いはちゃんと覚えている癖《くせ》に、成長した社会人特有の厚顔無恥の、謂わば世馴れた心から、けろりと忘れた振りして、平気で嘘を言い、それを取調べる検事も亦《また》、そこのところを見抜いていながら、その追究を大人気《おとなげ》ないものとして放棄し、とにかく話の筋が通って居れば、それで役所の書類作成に支障は無し、自分の勤めも大過無し、正義よりも真実よりも自分の職業の無事安泰が第一だと、そこは芸術家も検事も、世馴れた大人同士の暗黙の裏の了解ができて、そこで、「どちらも生きてくれと念じていました。」「よろしい、信頼しましょう。」ということになったのでは無いでしょうか。けれども、その疑惑は、間違っています。私は、それに就いて、いま諸君に、僭越《せんえつ》ながら教えなければなりません。その時の、男の答弁は正しいのです。また、その一言を信頼し、無罪放免した検事の態度も正しいのです。決してお互い妥協しているのではありません。男は、あの決闘の時、女房を殺せ! と願いました。と同時に、決闘やめろ! 拳銃からりと投げ出して二人で笑え、と危く叫ぼうとしたのであります。人は、念々と動く心の像すべてを真実と見做《みな》してはいけません。自分のものでも無い或る卑しい想念を、自分の生れつきの本性の如く誤って思い込み、悶々している気弱い人が、ずいぶん多い様子であります。卑しい
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