上がった。体の節節が狂っていて、骨と骨とが旨く食い合わないような気がする。草臥れ切った頭の中では、まだ絶えず拳銃を打つ音がする。頭の狭い中で、決闘が又しても繰返されているようである。此辺の景物が低い草から高い木まで皆黒く染まっているように見える。そう思って見ている内に、突然自分の影が自分の体を離れて、飛んで出たように、目の前を歩いて行く女が見えて来た。黒い着物を着て、茶色な髪をして白く光る顔をして歩いている。女房はその自分の姿を見て、丁度《ちょうど》他人を気の毒に思うように、その自分の影を気の毒に思って、声を立てて泣き出した。
 きょうまで暮して来た自分の生涯は、ばったり断ち切られてしまって、もう自分となんの関係も無い、白木の板のようになって自分の背後から浮いて流れて来る。そしてその上に乗る事も、それを拾い上げる事も出来ぬのである。そしてこれから先き生きているなら、どんなにして生きていられるだろうかと想像して見ると、その生活状態の目の前に建設せられて来たのが、如何《いか》にもこれまでとは違った形をしているので、女房はそれを見ておののき恐れた。譬《たと》えば移住民が船に乗って故郷の港を出る時、急に他郷がこわくなって、これから知らぬ新しい境へ引き摩《ず》られて行くよりは、寧《むし》ろ此海の沈黙の中へ身を投げようかと思うようなものである。
 そこで女房は死のうと決心して、起ち上がって元気好く、項《うなじ》を反《そら》せて一番近い村をさして歩き出した。
 女房は真っ直に村役場に這入《はい》って行ってこう云った。「あの、どうぞわたくしを縛って下さいまし、わたくしは決闘を致しまして、人を一人殺しました。」

    第五

 決闘の次第は、前回に於いて述べ尽しました。けれども物語は、それで終っているのではありません。火事は一夜で燃え尽しても、火事場の騒ぎは、一夜で終るどころか、人と人との間の疑心、悪罵《あくば》、奔走《ほんそう》、駈引《かけひ》きは、そののち永く、ごたついて尾を引き、人の心を、生涯とりかえしつかぬ程に歪曲《わいきょく》させてしまうものであります。この、前代未聞の女同士の決闘も、とにかく済んだ。意外にも、女房が勝って、女学生が殺された。その有様を、ずるい、悪徳の芸術家が、一つあまさず見とどけて、的確の描写を為し、成功して写実の妙手と称《たた》えられた。さて、それから事件は、どうなったのでしょう。まず、原文を読んでみましょう。原文も、この辺から、調子が落ちて、決闘の場面の描写ほど、張りが無いようであります。それは、その訳です。今迄は、かの流行作家も、女房の行く跡を、飢餓の狼《おおかみ》のようについて歩いて、女房が走ると自分も走り、女房が立ちどまると、自分も踞《かが》み、女房の姿態と顔色と、心の動きを、見つめ切りに見つめていたので、従ってその描写も、どきりとするほどの迫真の力を持つことが出来たのでありますが、いま決闘も終結し、女房は真っ直に村役場に這入って行ってしまったので、もはや観察の手段が無くなりました。下手《へた》に村役場のまわりに、うろついていたら、人に見られて、まずい事になります。この芸術家は、神の審判よりも、人の審判を恐れているたちの男でありますから、女房につづいて村役場に飛び込み、自分の心の一切を告白する勇気など持ち合せが無かったのであります。正義よりも、名声を愛して居ります。致しかたの無い事かも知れません。敢《あ》えて責めるべき事で無いかも知れない。人間は、もともとそんな、くだらないものであります。この利巧な芸術家も、村役場に這入って行く女房の姿を見て、ちょっと立ちどまり、それから、ばかな事はしたくない、という頗《すこぶ》る当り前の考えから、くるりと廻れ右して、もと来た道をさっさと引き返し、汽車に乗り、何食わぬ顔してわが家に帰り、ごろりとソファに寝ころがった。それから、いろいろ人から聞いて、女房のその後の様子を、次の如く知ることが出来たのであります。以下は、勿論、芸術家が直接に見て知ったことでは無く、さまざまの人達から少しずつ聞いたところのものを綜合して、それに自分の空想をもたくみに案配《あんばい》して綴った、謂《い》わば説明の文章であります。描写の文章では無いようであります。すなわち、女房が村役場に這入って行って、人を一人殺しました、と自首する。
「それを聞いて役場の書記二人はこれまで話に聞いた事も無い出来事なので、女房の顔を見て微笑《ほほえ》んだ。少し取り乱しているが、上流の奥さんらしく見える人が変な事を言うと思ったのである。書記等は多分これはどこかから逃げて来た女気違だろうと思った。
 女房は是非縛って貰いたいと云って、相手を殺したと云う場所を精《くわ》しく話した。
 それから人を遣って調べさせて見ると、相
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