午後十時十分発の奥羽《おうう》線まわり青森行きに乗ろうとしたが、折あしく改札直前に警報が出て構内は一瞬のうちに真暗になり、もう列も順番もあったものでなく、異様な大叫喚と共に群集が改札口に殺到し、私たちはそれぞれ幼児をひとりずつ抱えているのでたちまち負けて、どうやら列車にたどり着いた時には既に満員で、窓からもどこからもはいり込むすきが無かった。プラットホームに呆然《ぼうぜん》と立っているうちに、列車は溜息のような汽笛を鳴らして、たいぎそうにごとりと動いた。私たちはその夜は、上野駅の改札口の前にごろ寝をした。拡声機は夜明けちかくまで、青森方面の焼夷弾攻撃の模様を告げていた。しかし、とにかく私たちは青森方面へ行かなければならぬ。どんな列車でもいいから、少しでも北へ行く列車に乗ろうと考えて、翌朝五時十分、白河行きの汽車に乗った。十時半、白河着。そこで降りて、二時間プラットホームで待って、午後一時半、さらに少し北の小牛田《こごた》行きの汽車に乗った。窓から乗った。途中、郡山《こおりやま》駅爆撃。午後九時半、小牛田駅着。また駅の改札口の前で一泊。三日分くらいの食料を持参して来たのだが、何せ夏の暑いさいちゅうなので、にぎりめしが皆くさりかけて、めし粒が納豆のように糸をひいて、口にいれてもにちゃにちゃしてとても嚥下《えんか》することが出来ぬ。小牛田駅で夜を明し、お米は一升くらい持っていたので、そのお米をおむすびと交換してもらいに、女房は薄暗いうちから駅の附近の家をたたき起してまわった。やっと一軒かえてくれた。かなり大きいおむすびが四つである。私はおむすびに食らいついた。がりりと口中で音がした。吐き出して見ると、梅干である。私はその種を噛《か》みくだいてしまっていた。歯の悪い私が、梅干のあの固い種を噛みくだいたのである。ぞっとした。
しかし、これでもまだ、故郷までの全旅程の三分の一くらいしか来ていないのである。読者も、うんざりするだろう。あとまたいろいろ悲惨な思いをしたのであるが、もう書かない。とにかく、そんな思いをして故郷にたどりついてみると、故郷はまた艦載機の爆撃で大騒動の最中であった。
けれども、もう死んだって、故郷で死ぬのだから仕合せなほうかも知れないと思っていた。そうしてまもなく日本の無条件降伏である。
それから、既に、五箇月ちかく経《た》っている。私は新聞連載の長篇一つと、短篇小説をいくつか書いた。短篇小説には、独自の技法があるように思われる。短かければ短篇というものではない。外国でも遠くはデカメロンあたりから発して、近世では、メリメ、モオパスサン、ドオデエ、チェホフなんて、まあいろいろあるだろうが、日本では殊《こと》にこの技術が昔から発達していた国で、何々物語というもののほとんど全部がそれであったし、また近世では西鶴《さいかく》なんて大物も出て、明治では鴎外《おうがい》がうまかったし、大正では、直哉《なおや》だの善蔵《ぜんぞう》だの龍之介《りゅうのすけ》だの菊池寛だの、短篇小説の技法を知っている人も少くなかったが、昭和のはじめでは、井伏さんが抜群のように思われたくらいのもので、最近に到《いた》ってまるでもう駄目になった。皆ただ、枚数が短いというだけのものである。戦争が終って、こんどは好きなものを書いてもいいという事であったので、私は、この短篇小説のすたれた技法を復活させてやれと考えて、三つ四つ書いて雑誌社に送ったりなどしているうちに、何だかひどく憂鬱になって来た。
またもや、八つ当りしてヤケ酒を飲みたくなって来たのである。日本の文化がさらにまた一つ堕落しそうな気配を見たのだ。このごろの所謂「文化人」の叫ぶ何々主義、すべて私には、れいのサロン思想のにおいがしてならない。何食わぬ顔をして、これに便乗すれば、私も或いは「成功者」になれるのかも知れないが、田舎者《いなかもの》の私にはてれくさくて、だめである。私は、自分の感覚をいつわる事が出来ない。それらの主義が発明された当初の真実を失い、まるで、この世界の新現実と遊離して空転しているようにしか思われないのである。
新現実。
まったく新しい現実。ああ、これをもっともっと高く強く言いたい!
そこから逃げ出してはだめである。ごまかしてはいけない。容易ならぬ苦悩である。先日、ある青年が私を訪れて、食物の不足の憂鬱を語った。私は言った。
「嘘をつけ。君の憂鬱は食料不足よりも、道徳の煩悶《はんもん》だろう。」
青年は首肯した。
私たちのいま最も気がかりな事、最もうしろめいたいもの、それをいまの日本の「新文化」は、素通りして走りそうな気がしてならない。
私は、やはり、「文化」というものを全然知らない、頭の悪い津軽の百姓でしか無いのかも知れない。雪靴をはいて、雪路を歩いている私の姿は、まさに田舎者そのものである。しかし、私はこれからこそ、この田舎者の要領の悪さ、拙劣さ、のみ込みの鈍さ、単純な疑問でもって、押し通してみたいと思っている。いまの私が、自身にたよるところがありとすれば、ただその「津軽の百姓」の一点である。
十五年間、私は故郷から離れていたが、故郷も変らないし、また、私も一向に都会人らしく垢抜《あかぬ》けていないし、いや、いよいよ田舎臭く野暮《やぼ》ったくなるばかりである。「サロン思想」は、いよいよ私と遠くなる。
このごろ私は、仙台の新聞に「パンドラの匣《はこ》」という長篇小説を書いているが、その一節を左に披露して、この悪夢に似た十五年間の追憶の手記を結ぶ事にする。
(前略)嵐《あらし》のせいであろうか、或《ある》いは、貧しいともしびのせいであろうか、その夜は私たち同室の者四人が、越後獅子《えちごじし》の蝋燭《ろうそく》の火を中心にして集まり、久し振りで打ち解けた話を交《かわ》した。
「自由主義者ってのは、あれは、いったい何ですかね?」と、かっぽれは如何《いか》なる理由からか、ひどく声をひそめて尋ねる。
「フランスでは、」と固パンは英語のほうでこりたからであろうか、こんどはフランスの方面の知識を披露する。「リベルタンってやつがあって、これがまあ自由思想を謳歌《おうか》してずいぶんあばれ廻ったものです。十七世紀と言いますから、いまから三百年ほど前の事ですがね。」と、眉《まゆ》をはね上げてもったいぶる。「こいつらは主として宗教の自由を叫んで、あばれていたらしいです。」
「なんだ、あばれんぼうか。」とかっぽれは案外だというような顔で言う。
「ええ、まあ、そんなものです。たいていは、無頼漢みたいな生活をしていたのです。芝居なんかで有名な、あの、鼻の大きいシラノ、ね、あの人なんかも当時のリベルタンのひとりだと言えるでしょう。時の権力に反抗して、弱きを助ける。当時のフランスの詩人なんてのも、たいていもうそんなものだったのでしょう。日本の江戸時代の男伊達《おとこだて》とかいうものに、ちょっと似ているところがあったようです。」
「なんて事だい、」とかっぽれは噴《ふ》き出して、「それじゃあ、幡随院《ばんずいいん》の長兵衛《ちょうべえ》なんかも自由主義者だったわけですかねえ。」
しかし、固パンはにこりともせず、
「そりゃ、そう言ってもかまわないと思います。もっとも、いまの自由主義者というのは、タイプが少し違っているようですが、フランスの十七世紀のリベルタンってやつは、まあたいていそんなものだったのです。花川戸《はなかわど》の助六《すけろく》も鼠小僧《ねずみこぞう》の次郎吉《じろきち》も、或いはそうだったのかも知れませんね。」
「へええ、そんなわけの事になるますかねえ。」とかっぽれは、大喜びである。
越後獅子も、スリッパの破れを縫いながら、にやりと笑う。
「いったいこの自由思想というものは、」と固パンはいよいよまじめに、「その本来の姿は、反抗精神です。破壊思想といっていいかも知れない。圧制や束縛が取りのぞかれたところにはじめて芽生える思想ではなくて、圧制や束縛のリアクションとしてそれらと同時に発生し闘争すべき性質の思想です。よく挙げられる例ですけれども、鳩が或る日、神様にお願いした、『私が飛ぶ時、どうも空気というものが邪魔になって早く前方に進行できない。どうか空気というものを無くして欲しい。』神様はその願いを聞き容《い》れてやった。然《しか》るに鳩は、いくらはばたいても飛び上る事が出来なかった。つまりこの鳩が自由思想です。空気の抵抗があってはじめて鳩が飛び上る事が出来るのです。闘争の対象の無い自由思想は、まるでそれこそ真空管の中ではばたいている鳩のようなもので、全く飛翔《ひしょう》が出来ません。」
「似たような名前の男がいるじゃないか。」と越後獅子はスリッパを縫う手を休めて言った。
「あ、」と固パンは頭のうしろを掻《か》き、「そんな意味で言ったのではありません。これは、カントの例証です。僕は、現代の日本の政治界の事はちっとも知らないのです。」
「しかし、多少は知っていなくちゃいけないね。これから、若い人みんなに選挙権も被選挙権も与えられるそうだから。」と越後は、一座の長老らしく落ちつき払った態度で言い、「自由思想の内容は、その時、その時で全く違うものだと言っていいだろう。真理を追究して闘った天才たちは、ことごとく自由思想家だと言える。わしなんかは、自由思想の本家本元は、キリストだとさえ考えている。思い煩《わずら》うな、空飛ぶ鳥を見よ、播《ま》かず、刈らず、蔵に収めず、なんてのは素晴らしい自由思想じゃないか。わしは西洋の思想は、すべてキリストの精神を基底にして、或いはそれを敷衍《ふえん》し、或いはそれを卑近にし、或いはそれを懐疑し、人さまざまの諸説があっても結局、聖書一巻にむすびついていると思う。科学でさえ、それと無関係ではないのだ。科学の基礎をなすものは、物理界に於いても、化学界に於いても、すべて仮説だ。肉眼で見とどける事の出来ない仮説から出発している。この仮説を信仰するところから、すべての科学が発生するのだ。日本人は、西洋の哲学、科学を研究するよりさきに、まず聖書一巻の研究をしなければならぬ筈だったのだ。わしは別に、クリスチャンではないが、しかし日本が聖書の研究もせずに、ただやたらに西洋文明の表面だけを勉強したところに、日本の大敗北の真因があったと思う。自由思想でも何でも、キリストの精神を知らなくては、半分も理解できない。」(中略)
「十年一日の如き、不変の政治思想などは迷夢に過ぎない。キリストも、いっさい誓うな、と言っている。明日の事を思うな、とも言っている。実に、自由思想家の大先輩ではないか。狐《きつね》には穴あり、鳥には巣あり、されど人の子には枕《まくら》するところ無し、とはまた、自由思想家の嘆きといっていいだろう。一日も安住を許されない。その主張は、日々にあらたに、また日にあらたでなければならぬ。日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を罵倒《ばとう》してみたって、それはもう自由思想ではない。それこそ真空管の中の鳩である。真の勇気ある自由思想家なら、いまこそ何を措《お》いても叫ばなければならぬ事がある。天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。古いどころか詐欺だった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。十年前の自由と、今日の自由とその内容が違うとはこの事だ。それはもはや、神秘主義ではない。人間の本然の愛だ。アメリカは自由の国だと聞いている。必ずや、日本のこの真の自由の叫びを認めてくれるに違いない。」(後略)
底本:「グッド・バイ」新潮文庫、新潮社
1972(昭和47)年7月30日発行
1985(昭和60)年7月15日29刷
初出:「文化展望」
1946(昭和21)年4月号
入力:土屋隆
校正:田中敬三
2009年2月3日作成
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