したがって、津軽人の私も少しも文化人では無かったという事を発見してせいせいしたのである。それ以後の私の作品は、少し変ったような気がする。私は「津軽」という旅行記みたいな長編小説を発表した。その次には「新釈|諸国噺《しょこくはなし》」という短篇集を出版した。そうして、その次に、「惜別」という魯迅《ろじん》の日本留学時代の事を題材にした長篇と、「お伽草子《とぎぞうし》」という短篇集を作り上げた。その時に死んでも、私は日本の作家としてかなり仕事を残したと言われてもいいと思った。他の人たちは、だらしなかった。
 その間に私は二度も罹災《りさい》していた。「お伽草子」を書き上げて、その印税の前借をして私たちはとうとう津軽の生家へ来てしまった。
 甲府で二度目の災害を被《こうむ》り、行くところが無くなって、私たち親子四人は津軽に向って出発したのだが、それからたっぷり四昼夜かかってようやくの事で津軽の生家にたどりついたのである。
 その途中の困難は、かなりのものであった。七月の二十八日朝に甲府を出発して、大月《おおつき》附近で警戒警報、午後二時半頃上野駅に着き、すぐ長い列の中にはいって、八時間待ち、
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