げて光り、井伏さんも近年めっきり白髪が殖えた。いずれもなかなか稽古《けいこ》がきびしかった。性格も互いにどこやら似たところがある。私は、しかし、この人たちに育てられたのだ。この二人に死なれたら、私はひどく泣くだろうと思われる。
「魚服記」を発表し、井伏さんは、「何かの間違いかもわからない」と言って心配してくれているのに、私は田舎者の図々《ずうずう》しさで、さらにそのとし「思い出」という作品を発表し、もはや文壇の新人という事になった。そうしてその翌る年には、他のかなり有名な文芸雑誌などから原稿の依頼を受けたりしていたが、原稿料は、あったり無かったり、あっても一枚三十銭とか五十銭とか、ひどく安いもので、当時最も親しく附き合っていた学友などと一緒におんでやでお酒を飲みたくても、とても足りない金額であった。「晩年」という創作集なども出版せられ、太宰という私の筆名だけは世に高くなったが、私は少しも幸福にならなかった。私のこれまでの生涯を追想して、幽かにでも休養のゆとりを感じた一時期は、私が三十歳の時、いまの女房を井伏さんの媒酌でもらって、甲府《こうふ》市の郊外に一箇月六円五十銭の家賃の、最小の家を借りて住み、二百円ばかりの印税を貯金して誰とも逢わず、午後の四時頃から湯豆腐でお酒を悠々《ゆうゆう》と飲んでいたあの頃である。誰に気がねも要《い》らなかった。しかし、それも、たった三、四箇月で駄目になった。二百円の貯金なんて、そんなにいつまでもあるわけは無い。私はまた東京へ出て来て、荒っぽいすさんだ生活に、身を投じなければならなかった。私の半生は、ヤケ酒の歴史である。
 秩序ある生活と、アルコールやニコチンを抜いた清潔なからだを純白のシーツに横たえる事とを、いつも念願にしていながら、私は薄汚《うすぎたな》い泥酔者として場末の露地をうろつきまわっていたのである。なぜ、そのような結果になってしまうのだろう。それを今ここで、二言か三言で説明し去るのも、あんまりいい気なもののように思われる。それは私たちの年代の、日本の知識人全部の問題かも知れない。私のこれまでの作品ことごとくを挙げて答えてもなお足りずとする大きい問題かも知れない。
 私はサロン芸術を否定した。サロン思想を嫌悪《けんお》した。要するに私は、サロンなるものに居たたまらなかったのである。
 それは、知識の淫売店《いんばいだな》であ
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