業して見せてくれるだろう。それくらいの誠実は持っている奴《やつ》だと、ひそかに期待していた様子であった。私は見事に裏切った。卒業する気は無いのである。信頼している者を欺くことは、狂せんばかりの地獄である。それからの二年間、私は、その地獄の中に住んでいた。来年は、必ず卒業します。どうか、もう一年、おゆるし下さい、と長兄に泣訴しては裏切る。そのとしも、そうであった。その翌《あく》るとしも、そうであった。死ぬるばかりの猛省と自嘲《じちょう》と恐怖の中で、死にもせず私は、身勝手な、遺書と称する一|聯《れん》の作品に凝っていた。これが出来たならば。そいつは所詮《しょせん》、青くさい気取った感傷に過ぎなかったのかも知れない。けれども私は、その感傷に、命を懸《か》けていた。私は書き上げた作品を、大きい紙袋に、三つ四つと貯蔵した。次第に作品の数も殖《ふ》えて来た。私は、その紙袋に毛筆で、「晩年」と書いた。その一聯の遺書の、銘題のつもりであった。もう、これで、おしまいだという意味なのである。」
こんなところがまあ、当時の私の作品の所謂《いわゆる》、「楽屋裏」であった。この紙袋の中の作品を、昭和八、九、十、十一と、それから四箇年のあいだに全部発表してしまったが、書いたのは、おもに昭和七、八の両年であった。ほとんど二十四歳と二十五歳の間の作品なのである。私はそれからの二、三年間は、人から言われる度に、ただその紙袋の中から、一篇ずつ取り出して与えると、それでよかった。
昭和八年、私が二十五歳の時に、その「海豹」という同人雑誌の創刊号に発表した「魚服記」という十八枚の短篇小説は、私の作家生活の出発になったのであるが、それが意外の反響を呼んだので、それまで私の津軽訛《つがるなま》りの泥臭い文章をていねいに直して下さっていた井伏さんは驚き、「そんな、評判なんかになる筈《はず》は無いんだがね。いい気になっちゃいけないよ、何かの間違いかもわからない。」
と実に不安そうな顔をしておっしゃった。
そうして井伏さんはその後も、また、いつまでも、或《ある》いは何かの間違いかもわからない、とハラハラしていらっしゃる。永遠に私の文章に就いて不安を懐《いだ》いてくれる人は、この井伏さんと、それからの津軽の生家の兄かも知れない。このお二人は、共にことし四十八歳。私より十一、年上であって、兄の頭は既に禿《は》
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