京の大学へはいるようになったら、もうそれっきり、十数年間帰郷しなかったのであるから、津軽という国に就いてはまるで知らないと言ってよかった。私はゲートルを着け、生れてはじめて津軽の国の隅々まで歩きまわってみた。蟹田《かにた》から青森まで、小さい蒸気船の屋根の上に、みすぼらしい服装で仰向に寝ころがり、小雨が降って来て濡《ぬ》れてもじっとしていて、蟹田の土産《みやげ》の蟹の脚をポリポリかじりながら、暗鬱《あんうつ》な低い空を見上げていた時の、淋《さび》しさなどは忘れ難い。結局、私がこの旅行で見つけたものは「津軽のつたなさ」というものであった。拙劣さである。不器用さである。文化の表現方法の無い戸惑いである。私はまた、自身にもそれを感じた。けれども同時に私は、それに健康を感じた。ここから、何かしら全然あたらしい文化(私は、文化という言葉に、ぞっとする。むかしは文花と書いたようである)そんなものが、生れるのではなかろうか。愛情のあたらしい表現が生れるのではなかろうか。私は、自分の血の中の純粋の津軽|気質《かたぎ》に、自信に似たものを感じて帰京したのである。つまり私は、津軽には文化なんてものは無く、したがって、津軽人の私も少しも文化人では無かったという事を発見してせいせいしたのである。それ以後の私の作品は、少し変ったような気がする。私は「津軽」という旅行記みたいな長編小説を発表した。その次には「新釈|諸国噺《しょこくはなし》」という短篇集を出版した。そうして、その次に、「惜別」という魯迅《ろじん》の日本留学時代の事を題材にした長篇と、「お伽草子《とぎぞうし》」という短篇集を作り上げた。その時に死んでも、私は日本の作家としてかなり仕事を残したと言われてもいいと思った。他の人たちは、だらしなかった。
その間に私は二度も罹災《りさい》していた。「お伽草子」を書き上げて、その印税の前借をして私たちはとうとう津軽の生家へ来てしまった。
甲府で二度目の災害を被《こうむ》り、行くところが無くなって、私たち親子四人は津軽に向って出発したのだが、それからたっぷり四昼夜かかってようやくの事で津軽の生家にたどりついたのである。
その途中の困難は、かなりのものであった。七月の二十八日朝に甲府を出発して、大月《おおつき》附近で警戒警報、午後二時半頃上野駅に着き、すぐ長い列の中にはいって、八時間待ち、
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