財産が無いので、他の人よりも苦しみが強く来ました。私のことしの収入は、××円です。そうして、いま手許《てもと》に残っているお金は、××円です。しかし、私は誰からもお金を借りないつもりです。故郷の兄に、よっぽど借金申込みの手紙を出そうかと、思った夜もございましたが、やめにしました。こうなると、糞意地です。私は死ぬる前夜まで、大いに景気のいい顔をしてはしゃいでいるつもりです。そうして、あくまでも小説だけを書いて行きます。しかし、まさか、戦争|礼讃《らいさん》の小説などは書く気はしません。
 たったこれだけの事ですが、あなたに知って置いていただきたいと思います。私の身にも、いつ、どのような事があるかわかりませんから。この手紙には、御返事も何も要りません。御一読後は、ただちに破棄して下さい。以上。
 だいたい、こんな意味の手紙を、その先輩にこっそり出した事がある。愚痴をこぼしてさえ、非国民あつかいを受けなければならなかったのだから、思えば、ひどい時代だった。
 そんな手紙を出して、一箇月ばかり経った頃、私はその先輩と偶然、新宿で出逢《であ》った。私たちは何も言わずに黙って一緒に歩いた。しばらくして、その先輩が言った。
「君のあの手紙を読んだ。」
「そう。すぐ破ってくれましたか。」
「ああ、破った。」
 それだけだった。その先輩もまた、その頃は私以上につらい立場に置かれていたらしい。
 とにもかくにも、そんな生活をいつまでも続けているわけにはいかなかった。何とかして窮迫した生計の血路をひらかなければいけない。
 私は或る出版社から旅費をもらい、津軽旅行を企てた。その頃日本では、南方へ南方へと、皆の関心がもっぱらその方面にばかり集中せられていたのであるが、私はその正反対の本州の北端に向って旅立った。自分の身も、いつどのような事になるかわからぬ。いまのうちに自分の生れて育った津軽を、よく見て置こうと思い立ったのである。
 私は所謂純粋の津軽の百姓として生れ、小学、中学、高等学校と二十年間も津軽で育ちながら、津軽の五つ六つの小都市、町村を知っているに過ぎなかった。中学時代の夏冬の休暇には、自分の生家でごろごろしていて、兄たちの蔵書を手当り次第読みちらし、どこへ旅行しようともしなかったし、また高等学校時代の休暇には、東京にいる彫刻家の、兄のところへ遊びに行き、ほとんど生家に帰らず、東
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