つて、これは奇書だとか、そんなことを言つて友人たちを驚かせたものであつた。
みよの思ひ出も次第にうすれてゐたし、そのうへに私は、ひとつうちに居る者どうしが思つたり思はれたりすることを變にうしろめたく感じてゐたし、ふだんから女の惡口ばかり言つて來てゐる手前もあつたし、みよに就いて譬へほのかにでも心を亂したのが腹立しく思はれるときさへあつたほどで、弟にはもちろん、これらの友人たちにもみよの事だけは言はずに置いたのである。
ところが、そのあたり私は、ある露西亞の作家の名だかい長編小説を讀んで、また考へ直して了つた。それは、ひとりの女囚人の經歴から書き出されてゐたが、その女のいけなくなる第一歩は、彼女の主人の甥にあたる貴族の大學生に誘惑されたことからはじまつてゐた。私はその小説のもつと大きなあぢはひを忘れて、そのふたりが咲き亂れたライラツクの花の下で最初の接吻を交したペエジに私の枯葉の枝折をはさんでおいたのだ。私もまた、すぐれた小説をよそごとのやうにして讀むことができなかつたのである。私には、そのふたりがみよと私とに似てゐるやうな氣分がしてならなかつた。私がいま少しすべてにあつかましかつたら、いよいよ此の貴族とそつくりになれるのだ、と思つた。さう思ふと私の臆病さがはかなく感じられもするのである。こんな氣のせせこましさが私の過去をあまりに平坦にしてしまつたのだと考へた。私自身で人生のかがやかしい受難者になりたく思はれたのである。
私は此のことをまづ弟へ打ち明けた。晩に寢てから打ち明けた。私は巖肅な態度で話すつもりであつたが、さう意識してこしらへた姿勢が逆に邪魔をして來て、結局うはついた。私は、頸筋をさすつたり兩手をもみ合せたりして、氣品のない話かたをした。さうしなければかなはぬ私の習性を私は悲しく思つた。弟は、うすい下唇をちろちろ舐めながら、寢がへりもせず聞いてゐたが、けつこんするのか、と言ひにくさうにして尋ねた。私はなぜだかぎよつとした。できるかどうか、とわざとしをれて答へた。弟は、恐らくできないのではないかといふ意味のことを案外なおとなびた口調でまはりくどく言つた。それを聞いて、私は自分のほんたうの態度をはつきり見つけた。私はむつとして、たけりたけつたのである。蒲團から半身を出して、だからたたかふのだ、たたかふのだ、と聲をひそめて強く言ひ張つた。弟は更紗染めの蒲團の
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