つことができなかつた。けれどもひとりでゐるときには、私はもつと大膽だつた筈である。鏡の私の顏へ、片眼をつぶつて笑ひかけたり、机の上に小刀で薄い唇をほりつけて、それへ私の唇をのせたりした。この唇には、あとで赤いインクを塗つてみたが、妙にどすぐろくなつていやな感じがして來たから、私は小刀ですつかり削りとつて了つた。
私が三年生になつて、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかつて、私はしばらくぼんやりしてゐた。橋の下には隅田川に似た廣い川がゆるゆると流れてゐた。全くぼんやりしてゐる經驗など、それまでの私にはなかつたのである。うしろで誰か見てゐるやうな氣がして、私はいつでも何かの態度をつくつてゐたのである。私のいちいちのこまかい仕草にも、彼は當惑して掌を眺めた、彼は耳の裏を掻きながら呟いた、などと傍から傍から説明句をつけてゐたのであるから、私にとつて、ふと、とか、われしらず、とかいふ動作はあり得なかつたのである。橋の上での放心から覺めたのち、私は寂しさにわくわくした。そんな氣持のときには、私もまた、自分の來しかた行末を考へた。橋をかたかた渡りながら、いろんな事を思ひ出し、また夢想した。そして、おしまひに溜息ついてかう考へた。えらくなれるかしら。その前後から、私はこころのあせりをはじめてゐたのである。私は、すべてに就いて滿足し切れなかつたから、いつも空虚なあがきをしてゐた。私には十重二十重の假面がへばりついてゐたので、どれがどんなに悲しいのか、見極めをつけることができなかつたのである。そしてたうとう私は或るわびしいはけ口を見つけたのだ。創作であつた。ここにはたくさんの同類がゐて、みんな私と同じやうに此のわけのわからぬをののきを見つめてゐるやうに思はれたのである。作家にならう、作家にならう、と私はひそかに願望した。弟もそのとし中學校へはひつて、私とひとつ部屋に寢起してゐたが、私は弟と相談して、初夏のころに五六人の友人たちを集め同人雜誌をつくつた。私の居るうちの筋向ひに大きい印刷所があつたから、そこへ頼んだのである。表紙も石版でうつくしく刷らせた。クラスの人たちへその雜誌を配つてやつた。私はそれへ毎月ひとつづつ創作を發表したのである。はじめは道徳に就いての哲學者めいた小説を書いた。一行か二行の斷片的な隨筆をも得意としてゐた。この雜誌はそれから一年ほど
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