人で飲むという事にさせていただきたいんですけど。」
「あ、そう。」
 半分は、よそへ持って行くんだろう。こんな高級のウイスキイなら、それは当然の事だ、と私はとっさに合点して、
「おい。」
 と女房を呼び、
「何か瓶を持って来てくれないか。」
「いいえ、そうじゃないんです。」
 と丸山君はあわて、
「半分は今夜ここで二人で飲んで、半分はお宅へ置いて行かせていただくつもりなんです。」
 私は、丸山君をいよいよ洒落たひとだ、と唸《うな》るくらいに感服した。私たちなら、一升さげて友人の宅へ行ったら、それは友人と一緒にたいらげる事にきめてしまっていて、また友人のほうでも、それは当然の事と思っているのだ。甚だしきに到っては、ビイルを二本くらい持参して、まずそれを飲み、とても足りっこ無いんだから、主人のほうから何か飲み物を釣り出すという所謂《いわゆる》、海老鯛《えびたい》式の作法さえ時たま行われているのである。
 とにかく私にとって、そのような優雅な礼儀正しい酒客の来訪は、はじめてであった。
「なあんだ、そんなら一緒に今夜、全部飲んでしまいましょう。」
 私はその夜、実にたのしかった。丸山君は、いま日本で自分の信頼しているひとは、あなただけなんだから、これからも附合ってくれ、と言い、私は見っともないくらいそりかえって、いい気持になり、調子に乗って誰彼を大声で罵倒《ばとう》しはじめ、おとなしい丸山君は少しく閉口の気味になったようで、
「では、きょうはこれくらいにして、おいとまします。」
 と言った。
「いや、いけません。ウイスキイがまだ少し残っている。」
「いや、それは残して置きなさい。あとで残っているのに気が附いた時には、また、わるくないものですよ。」
 苦労人らしい口調で言った。
 私は丸山君を吉祥寺駅まで送って行って、帰途、公園の森の中に迷い込み、杉の大木に鼻を、イヤというほど強く衝突させてしまった。
 翌朝、鏡を見ると、目をそむけたいくらいに鼻が赤く、大きくはれ上っていて、鬱々として楽しまず、朝の食卓についた時、家の者が、
「どうします? アペリチイフは? ウイスキイが少し残っていてよ。」
 救われた。なるほど、お酒は少し残して置くべきものだ。善い哉《かな》、丸山君の思いやり。私はまったく、丸山君の優しい人格に傾倒した。
 丸山君は、それからも、私のところへ時々、速達をよこしたり、またご自身迎えに来てくれたりして、おいしいお酒をたくさん飲めるさまざまの場所へ案内した。次第に東京の空襲がはげしくなったが、丸山君の酒席のその招待は変る事なく続き、そうして私は、こんどこそ私がお勘定を払って見せようと油断なく、それらの酒席の帳場に駈け込んで行っても、いつも、「いいえ、もう丸山さんからいただいております。」という返事で、ついに一度も、私が支払い得なかったという醜態ぶりであった。
「新宿の秋田、ご存じでしょう! あそこでね、今夜、さいごのサーヴィスがあるそうです。まいりましょう。」
 その前夜、東京に夜間の焼夷弾《しょういだん》の大空襲があって、丸山君は、忠臣蔵の討入《うちいり》のような、ものものしい刺子《さしこ》の火事場装束で、私を誘いにやって来た。ちょうどその時、伊馬春部君も、これが最後かも知れぬと拙宅へ鉄かぶとを背負って遊びにやって来ていて、私と伊馬君は、それは耳よりの話、といさみ立って丸山君のお伴《とも》をした。
 その夜、秋田に於いて、常連が二十人ちかく、秋田のおかみは、来る客、来る客の目の前に、秋田産の美酒一升瓶一本ずつ、ぴたりぴたりと据えてくれた。あんな豪華な酒宴は無かった。一人が一升瓶一本ずつを擁して、それぞれ手酌で、大きいコップでぐいぐいと飲むのである。さかなも、大どんぶりに山盛りである。二十人ちかい常連は、それぞれ世に名も高い、といっても決して誇張でないくらいの、それこそ歴史的な酒豪ばかりであったようだが、しかし、なかなか飲みほせなかった様子であった。私はその頃は、既に、ひや酒でも何でも、大いに飲める野蛮人になりさがっていたのであるが、しかし、七合くらいで、もう苦しくなって、やめてしまった。秋田産のその美酒は、アルコール度もなかなか高いようであった。
「岡島さんは、見えないようだね。」
 と、常連の中の誰かが言った。
「いや、岡島さんの家はね、きのうの空襲で丸焼けになったんです。」
「それじゃあ、来られない。気の毒だねえ、せっかくのこんないいチャンス、……」
 などと言っているうちに、顔は煤《すす》だらけ、おそろしく汚い服装の中年のひとが、あたふたと店にはいって来て、これがその岡島さん。
「わあ、よく来たものだ。」
 と皆々あきれ、かつは感嘆した。
 この時の異様な酒宴に於いて、最も泥酔し、最も見事な醜態を演じた人は、実にわが
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