その頃、私は二十五歳であったと思うが、古谷君たちの「海豹」という同人雑誌に参加し、古谷君の宅がその雑誌の事務所という事になっていたので、私もしばしば遊びに行き、古谷君の文学論を聞きながら、古谷君の酒を飲んだ。
 その頃の古谷君は、機嫌のいい時は馬鹿にいいが、悪い時はまたひどかった。たしか早春の夜と記憶するが、私が古谷君の宅へ遊びに行ったら古谷君は、
「君、酒を飲むんだろう?」
 と、さげすむような口調で言ったので、私も、むっとした。なにも私のほうだけが、いつもごちそうのなりっ放しになっているわけではない。
「そんな言いかたをするなよ。」
 私は無理に笑ってそう言った。
 すると古谷君も、少し笑って、
「しかし、飲むんだろう?」
「飲んでもいい。」
「飲んでもいい、じゃない。飲みたいんだろう?」
 古谷君には、その頃、ちょっとしつっこいところがあった。私は帰ろうかと思った。
「おうい。」と、古谷君は細君を呼んで、「台所にまだ五ん合くらいお酒が残っているだろう。持って来なさい。瓶《びん》のままでいい。」
 私はも少し、いようかと思った。酒の誘惑はおそろしいものである。細君が、お酒の「五ん合」くらいはいっている一升瓶を持って来た。
「お燗《かん》をつけなくていいんですか?」
「かまわないだろう。その茶呑茶碗にでも、ついでやりなさい。」
 古谷君は、ひどく傲然《ごうぜん》たるものである。
 私も向っ腹が立っていたので、黙ってぐいと飲んだ。私の記憶する限りに於ては、これが私の生れてはじめての、ひや酒を飲んだ経験であった。
 古谷君は懐手《ふところで》して、私の飲むのをじろじろ見て、そうして私の着物の品評をはじめた。
「相変らず、いい下着を着ているな。しかし君は、わざと下着の見えるような着附けをしているけれども、それは邪道だぜ。」
 その下着は、故郷のお婆さんのおさがりだった。私は、いよいよ面白くない気持で、なおもがぶがぶ、生れてはじめてのひや酒を手酌で飲んだ。一向に酔わない。
「ひや酒ってのは、これや、水みたいなものじゃないか。ちっとも何とも無い。」
「そうかね。いまに酔うさ。」
 たちまち、五ん合飲んでしまった。
「帰ろう。」
「そうか。送らないぜ。」
 私はひとり、古谷君の宅を出た。私は夜道を歩いて、ひどく悲しくなり、小さい声で、
 わたしゃ
 売られて行くわいな
 というお軽の唄をうたった。
 突如、実にまったく突如、酔いが発した。ひや酒は、たしかに、水では無かった。ひどく酔って、たちまち、私の頭上から巨大の竜巻が舞い上り、私の足は宙に浮き、ふわりふわりと雲霧の中を掻きわけて進むというあんばいで、そのうちに転倒し、
 わたしゃ
 売られて行くわいな
 と小声で呟《つぶや》き、起き上って、また転倒し、世界が自分を中心に目にもとまらぬ速さで回転し、
 わたしゃ
 売られて行くわいな
 その蚊《か》の鳴くが如き、あわれにかぼそいわが歌声だけが、はるか雲煙のかなたから聞えて来るような気持で、
 わたしゃ
 売られて行くわいな
 また転倒し、また起き上り、れいの「いい下着」も何も泥まみれ、下駄を見失い、足袋《たび》はだしのままで、電車に乗った。
 その後、私は現在まで、おそらく何百回、何千回となく、ひや酒を飲んだが、しかし、あんなにひどいめに逢った事が無かった。
 ひや酒に就いて、忘れられないなつかしい思い出が、もう一つある。
 それを語るためには、ちょっと、私と丸山定夫君との交友に就いて説明して置く必要がある。
 太平洋戦争のかなりすすんだ、あれは初秋の頃であったか、丸山定夫君から、次のような意味のおたよりをいただいた。
 ぜひいちど訪問したいが、よろしいだろうか、そうしてその折、私ともう一人のやつを連れて行きたい、そのやつとも逢ってやっては下さるまいか。
 私はそれまでいちども丸山君とは、逢った事も無いし、また文通した事も無かったのである。しかし、名優としての丸山君の名は聞いて知っていたし、また、その舞台姿も拝見した事がある。私は、いつでもおいで下さい、と返事を書いて、また拙宅に到る道筋の略図なども書き添えた。
 数日後、丸山です、とれいの舞台で聞き覚えのある特徴のある声が、玄関に聞えた。私は立って玄関に迎えた。
 丸山君おひとりであった。
「もうひとりのおかたは?」
 丸山君は微笑して、
「いや、それが、こいつなんです。」
 と言って風呂敷から、トミイウイスキイの角瓶を一本取り出して、玄関の式台の上に載せた。洒落《しゃれ》たひとだ、と私は感心した。その頃は、いや、いまでもそうだが、トミイウイスキイどころか、焼酎でさえめったに我々の力では入手出来なかったのである。
「それから、これはどうも、ケチくさい話なんですが、これを半分だけ、今夜二
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング