映画と、小説とは、まるでちがうものだ。国技館の角力《すもう》を見物して、まじめくさり、「何事も、芸の極致は同じであります。」などという感慨をもらす馬鹿な作家。
何事も、生活感情は同じであります、というならば、少しは穏当である。
ことさらに、映画と小説を所謂《いわゆる》「極致」に於いて同視せずともよい。また、ことさらに独自性をわめき散らし、排除し合うのも、どうかしている。医者と坊主だって、路《みち》で逢えば互いに敬礼するではないか。
これからの映画は、必ずしも「敗者の糧」を目標にして作るような事は無いかも知れぬ。けれども観衆の大半は、ひょっとしたら、やっぱり侘《わ》びしい人たちばかりなのではあるまいか。日劇を、ぐるりと取り巻いている入場者の長蛇の列を見ると、私は、ひどく重い気持になるのである。「映画でも[#「でも」に傍点]見ようか。」この言葉には、やはり無気力な、敗者の溜息《ためいき》がひそんでいるように、私には思われてならない。
弱者への慰めのテエマが、まだ当分は、映画の底に、くすぶるのではあるまいか。
底本:「もの思う葦」新潮文庫、新潮社
1980(昭和55)
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