片町のお家の近所に住んでいましたので、私たちも隣組のよしみで、時たま逢う事がありました。いつか、あれは秋の夕暮だったと覚えていますが、私とお母さまと二人で、自動車でその師匠さんのお家の前を通り過ぎた時、そのお方がおひとりでぼんやりお宅の門の傍《そば》に立っていらして、お母さまが自動車の窓からちょっと師匠さんにお会釈なさったら、その師匠さんの気むずかしそうな蒼黒《あおぐろ》いお顔が、ぱっと紅葉よりも赤くなりました。
「こいかしら」
 私は、はしゃいで言いました。
「お母さまを、すきなのね」
 けれども、お母さまは落ちついて、
「いいえ、偉いお方」
 とひとりごとのように、おっしゃいました。芸術家を尊敬するのは、私どもの家の家風のようでございます。
 その師匠さんが、先年奥さまをなくなさったとかで、和田の叔父さまと謡曲のお天狗《てんぐ》仲間の或る宮家のお方を介し、お母さまに申し入れをなさって、お母さまは、かず子から思ったとおりの御返事を師匠さんに直接さしあげたら? とおっしゃるし、私は深く考えるまでもなく、いやなので、私にはいま結婚の意志がございません、という事を何でもなくスラスラと書けま
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