う二、三軒飲める。馬鹿にしてやがる」
 上原さんは顔をしかめておっしゃって、それから笑った。
「どこかへ、また、飲みにおいでになりますか?」
 と、おたずねしたら、まじめに首を振って、
「いや、もうたくさん。タキシーを拾ってあげますから、お帰りなさい」
 私たちは、地下室の暗い階段をのぼって行った。一歩さきにのぼって行く上原さんが、階段の中頃《なかごろ》で、くるりとこちら向きになり、素早く私にキスをした。私は唇《くちびる》を固く閉じたまま、それを受けた。
 べつに何も、上原さんをすきでなかったのに、それでも、その時から私に、あの「ひめごと」が出来てしまったのだ。かたかたかたと、上原さんは走って階段を上って行って、私は不思議な透明な気分で、ゆっくり上って、外へ出たら、川風が頬《ほお》にとても気持よかった。
 上原さんに、タキシーを拾っていただいて、私たちは黙ってわかれた。
 車にゆられながら、私は世間が急に海のようにひろくなったような気持がした。
「私には、恋人があるの」
 或《あ》る日、私は、夫からおこごとをいただいて淋しくなって、ふっとそう言った。
「知っています。細田でしょう? ど
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