はっきり聞えたような気がして、私は恥ずかしさで、頬《ほお》が焼けるみたいに熱くなった。
お母さまは、何もおっしゃらず、また、ご本をお読みになる。お母さまは、こないだからガーゼのマスクをおかけになっていらして、そのせいか、このごろめっきり無口になった。そのマスクは、直治の言いつけに従って、おかけになっているのである。直治は、十日ほど前に、南方の島から蒼黒《あおぐろ》い顔になって還《かえ》って来たのだ。
何の前触れも無く、夏の夕暮、裏の木戸から庭へはいって来て、
「わあ、ひでえ。趣味のわるい家だ。来々軒《らいらいけん》。シュウマイあります、と貼りふだしろよ」
それが私とはじめて顔を合せた時の、直治の挨拶《あいさつ》であった。
その二、三日前からお母さまは、舌を病んで寝ていらした。舌の先が、外見はなんの変りも無いのに、うごかすと痛くてならぬとおっしゃって、お食事も、うすいおかゆだけで、お医者さまに見ていただいたら? と言っても、首を振って、
「笑われます」
と苦笑いしながら、おっしゃる。ルゴールを塗ってあげたけれども、少しもききめが無いようで、私は妙にいらいらしていた。
そこへ、
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