ぶと、お母さまは薄くお笑いになり、
「なんでもないの」
 とおっしゃって、そっとまたお部屋におはいりになった。
 その夜、お蒲団《ふとん》はもう荷造りをすましてしまったので、お君は二階の洋間のソファに、お母さまと私は、お母さまのお部屋に、お隣りからお借りした一組のお蒲団をひいて、二人一緒にやすんだ。
 お母さまは、おや? と思ったくらいに老《ふ》けた弱々しいお声で、
「かず子がいるから、かず子がいてくれるから、私は伊豆へ行くのですよ。かず子がいてくれるから」
 と意外な事をおっしゃった。
 私は、どきんとして、
「かず子がいなかったら?」
 と思わずたずねた。
 お母さまは、急にお泣きになって、
「死んだほうがよいのです。お父さまの亡くなったこの家で、お母さまも、死んでしまいたいのよ」
 と、とぎれとぎれにおっしゃって、いよいよはげしくお泣きになった。
 お母さまは、今まで私に向って一度だってこんな弱音をおっしゃった事が無かったし、また、こんなに烈《はげ》しくお泣きになっているところを私に見せた事も無かった。お父上がお亡くなりになった時も、また私がお嫁に行く時も、そして赤ちゃんをおなか
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