》しているのです。
僕を恥ずかしい目に逢《あ》わせないで。
姉さん!」
そこまで読んで私は、その夕顔日誌を閉じ、木の箱にかえして、それから窓のほうに歩いて行き、窓を一ぱいにひらいて、白い雨に煙っているお庭を見下《みおろ》しながら、あの頃の事を考えた。
もう、あれから、六年になる。直治の、この麻薬中毒が、私の離婚の原因になった、いいえ、そう言ってはいけない、私の離婚は、直治の麻薬中毒がなくっても、べつな何かのきっかけで、いつかは行われているように、そのように、私の生れた時から、さだまっていた事みたいな気もする。直治は、薬屋への支払いに困って、しばしば私にお金をねだった。私は山木へ嫁《とつ》いだばかりで、お金などそんなに自由になるわけは無し、また、嫁ぎ先のお金を、里の弟へこっそり融通してやるなど、たいへん工合いの悪い事のようにも思われたので、里から私に附《つ》き添って来たばあやのお関《せき》さんと相談して、私の腕輪や、頸飾《くびかざ》りや、ドレスを売った。弟は私に、お金を下さい、という手紙を寄こして、そうして、いまは苦しくて恥ずかしくて、姉上と顔を合せる事も、また電話で話する事さえ、とても出来ませんから、お金は、お関に言いつけて、京橋の×町×丁目のカヤノアパートに住んでいる、姉上も名前だけはご存じの筈の、小説家上原二郎さんのところにとどけさせるよう、上原さんは、悪徳のひとのように世の中から評判されているが、決してそんな人ではないから、安心してお金を上原さんのところへとどけてやって下さい、そうすると、上原さんがすぐに僕に電話で知らせる事になっているのですから、必ずそのようにお願いします、僕はこんどの中毒を、ママにだけは気附かれたくないのです、ママの知らぬうちに、なんとかしてこの中毒をなおしてしまうつもりなのです、僕は、こんど姉上からお金をもらったら、それでもって薬屋への借りを全部支払って、それから塩原の別荘へでも行って、健康なからだになって帰って来るつもりなのです、本当です、薬屋の借りを全部すましたら、もう僕は、その日から麻薬を用いる事はぴったりよすつもりです、神さまに誓います、信じて下さい、ママには内緒に、お関をつかってカヤノアパートの上原さんに、たのみます、というような事が、その手紙に書かれていて、私はその指図《さしず》どおりに、お関さんにお金を持たせて、こっそり上原さんのアパートにとどけさせたものだが、弟の手紙の誓いは、いつも嘘《うそ》で、塩原の別荘にも行かず、薬品中毒はいよいよひどくなるばかりの様子で、お金をねだる手紙の文章も、悲鳴に近い苦しげな調子で、こんどこそ薬をやめると、顔をそむけたいくらいの哀切な誓いをするので、また嘘かも知れぬと思いながらも、つ「また、ブローチなどお関さんに売らせて、そのお金を上原さんのアパートにとどけさせるのだった。
「上原さんって、どんな方?」
「小柄《こがら》で顔色の悪い、ぶあいそな人でございます」
と、お関さんは答える。
「でも、アパートにいらっしゃる事は、めったにございませぬです。たいてい、奥さんと、六つ七つの女のお子さんと、お二人がいらっしゃるだけでございます。この奥さんは、そんなにお綺麗《きれい》でもございませぬけれども、お優しくて、よく出来たお方のようでございます。あの奥さんになら、安心してお金をあずける事が出来ます」
その頃の私は、いまの私に較《くら》べて、いいえ、較べものにも何もならぬくらい、まるで違った人みたいに、ぼんやりの、のんき者ではあったが、それでも流石《さすが》に、つぎつぎと続いてしかも次第に多額のお金をねだられて、たまらなく心配になり、一日、お能からの帰り、自動車を銀座でかえして、それからひとりで歩いて京橋のカヤノアパートを訪ねた。
上原さんは、お部屋でひとり、新聞を読んでいらした。縞《しま》の袷《あわせ》に、紺絣《こんがすり》のお羽織を召していらして、お年寄りのような、お若いような、いままで見た事もない奇獣のような、へんな初印象を私は受取った。
「女房はいま、子供と、一緒に、配給物を取りに」
すこし鼻声で、とぎれとぎれにそうおっしゃる。私を、奥さんのお友達とでも思いちがいしたらしかった。私が、直治の姉だと言う事を申し上げたら、上原さんは、ふん、と笑った。私は、なぜだか、ひやりとした。
「出ましょうか」
そう言って、もう二重廻《にじゅうまわ》しをひっかけ、下駄箱《げたばこ》から新しい下駄を取り出しておはきになり、さっさとアパートの廊下を先に立って歩かれた。
外は、初冬の夕暮。風が、つめたかった。隅田川《すみだがわ》から吹いて来る川風のような感じであった。上原さんは、その川風にさからうように、すこし右肩をあげて築地のほうに黙って歩いて行かれる。私
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