まは起きていらっしゃるけれども、食慾《しょくよく》はやっぱりあまり無い御様子だし、口数もめっきり少く、とても私は気がかりで、直治はまあ、東京で何をしているのだろう、あの小説家の上原さんなんかと一緒に東京中を遊びまわって、東京の狂気の渦《うず》に巻き込まれているのにちがいない、と思えば思うほど、苦しくつらくなり、お母さまに、だしぬけに薔薇の事など報告して、そうして、子供が無いからよ、なんて自分にも思いがけなかったへんな事を口走って、いよいよ、いけなくなるばかりで、
「あ」
 と言って立ち上り、さて、どこへも行くところが無く、身一つをもてあまして、ふらふら階段をのぼって行って、二階の洋間にはいってみた。
 ここは、こんど直治の部屋になる筈で、四、五日前に私が、お母さまと相談して、下の農家の中井さんにお手伝いをたのみ、直治の洋服|箪笥《だんす》や机や本箱、また、蔵書やノートブックなど一ぱいつまった木の箱五つ六つ、とにかく昔、西片町のお家の直治のお部屋にあったもの全部を、ここに持ち運び、いまに直治が東京から帰って来たら、直治の好きな位置に、箪笥本箱などそれぞれ据《す》える事にして、それまではただ雑然とここに置き放しにしていたほうがよさそうに思われたので、もう、足の踏み場も無いくらいに、部屋一ぱい散らかしたままで、私は、何気なく足もとの木の箱から、直治のノートブックを一冊取りあげて見たら、そのノートブックの表紙には、

   夕顔日誌

 と書きしるされ、その中には、次のような事が一ぱい書き散らされていたのである。直治が、あの、麻薬中毒で苦しんでいた頃の手記のようであった。


 焼け死ぬる思い。苦しくとも、苦しと一言、半句、叫び得ぬ、古来、未曾有《みぞう》、人の世はじまって以来、前例も無き、底知れぬ地獄の気配を、ごまかしなさんな。
 思想? ウソだ。主義? ウソだ。理想? ウソだ。秩序? ウソだ。誠実? 真理? 純粋? みなウソだ。牛島の藤は、樹齢千年、熊野《ゆや》の藤は、数百年と称《とな》えられ、その花穂の如きも、前者で最長九尺、後者で五尺余と聞いて、ただその花穂にのみ、心がおどる。
 アレモ人ノ子。生キテイル。
 論理は、所謂《しょせん》、論理への愛である。生きている人間への愛では無い。
 金と女。論理は、はにかみ、そそくさと歩み去る。
 歴史、哲学、教育、宗教、法律、政治、経済、社会、そんな学問なんかより、ひとりの処女の微笑が尊いというファウスト博士の勇敢なる実証。
 学問とは、虚栄の別名である。人間が人間でなくなろうとする努力である。

 ゲエテにだって誓って言える。僕は、どんなにでも巧《うま》く書けます。一篇《いっぺん》の構成あやまたず、適度の滑稽《こっけい》、読者の眼のうらを焼く悲哀、若《も》しくは、粛然、所謂襟《いわゆるえり》を正さしめ、完璧《かんぺき》のお小説、朗々音読すれば、これすなわち、スクリンの説明か、はずかしくって、書けるかっていうんだ。どだいそんな、傑作意識が、ケチくさいというんだ。小説を読んで襟を正すなんて、狂人の所作《しょさ》である。そんなら、いっそ、羽織袴《はおりはかま》でせにゃなるまい。よい作品ほど、取り澄ましていないように見えるのだがなあ。僕は友人の心からたのしそうな笑顔を見たいばかりに、一篇の小説、わざとしくじって、下手くそに書いて、尻餅《しりもち》ついて頭かきかき逃げて行く。ああ、その時の、友人のうれしそうな顔ったら!
 文いたらず、人いたらぬ風情《ふぜい》、おもちゃのラッパを吹いてお聞かせ申し、ここに日本一の馬鹿がいます、あなたはまだいいほうですよ、健在なれ! と願う愛情は、これはいったい何でしょう。
 友人、したり顔にて、あれがあいつの悪い癖、惜しいものだ、と御述懐。愛されている事を、ご存じ無い。
 不良でない人間があるだろうか。
 味気ない思い。
 金が欲しい。
 さもなくば、
 眠りながらの自然死!

 薬屋に千円ちかき借金あり。きょう、質屋の番頭をこっそり家へ連れて来て、僕の部屋へとおして、何かこの部屋に目ぼしい質草ありや、あるなら持って行け、火急に金が要る、と申せしに、番頭ろくに部屋の中を見もせず、およしなさい、あなたのお道具でもないのに、とぬかした。よろしい、それならば、僕がいままで、僕のお小遣い銭で買った品物だけ持って行け、と威勢よく言って、かき集めたガラクタ、質草の資格あるしろもの一つも無し。
 まず、片手の石膏像《せっこうぞう》。これは、ヴィナスの右手。ダリヤの花にも似た片手、まっしろい片手、それがただ台上に載っているのだ。けれども、これをよく見ると、これはヴィナスが、その全裸を、男に見られて、あなやの驚き、含羞旋風《がんしゅうせんぷう》、裸身むざん、薄くれない、残りくまなき
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