ず子は頸《くび》すじが白くて綺麗《きれい》だから、なるべく頸すじを隠さないように、っておっしゃったじゃないの」
「そんな事だけは、覚えているのね」
「少しでもほめられた事は、一生わすれません。覚えていたほうが、たのしいもの」
「こないだ、あの方からも、何かとほめられたのでしょう」
「そうよ。それで、べったりになっちゃったの。私と一緒にいると霊感が、ああ、たまらない。私、芸術家はきらいじゃないんですけど、あんな、人格者みたいに、もったいぶってるひとは、とても、ダメなの」
「直治の師匠さんは、どんなひとなの?」
 私は、ひやりとしました。
「よくわからないけど、どうせ直治の師匠さんですもの、札つきの不良らしいわ」
「札つき?」
 と、お母さまは、楽しそうな眼つきをなさって呟《つぶや》き、
「面白い言葉ね。札つきなら、かえって安全でいいじゃないの。鈴を首にさげている子猫《こねこ》みたいで可愛らしいくらい。札のついていない不良が、こわいんです」
「そうかしら」
 うれしくて、うれしくて、すうっとからだが煙になって空に吸われて行くような気持でした。おわかりになります? なぜ、私が、うれしかったか。おわかりにならなかったら、……殴るわよ。
 いちど、本当に、こちらへ遊びにいらっしゃいません? 私から直治に、あなたをお連れして来るように、って言いつけるのも、何だか不自然で、へんですから、あなたご自身の酔興から、ふっとここへ立寄ったという形にして、直治の案内でおいでになってもいいけれども、でも、なるべくならおひとりで、そうして直治が東京に出張した留守においでになって下さい。直治がいると、あなたを直治にとられてしまって、きっとあなたたちは、お咲さんのところへ焼酎《しょうちゅう》なんかを飲みに出かけて行って、それっきりになるにきまっていますから。私の家では、先祖代々、芸術家を好きだったようです。光琳《こうりん》という画家も、むかし私どもの京都のお家に永く滞在して、襖《ふすま》に綺麗な絵をかいて下さったのです。だから、お母さまも、あなたの御来訪を、きっと喜んで下さると思います。あなたは、たぶん、二階の洋間におやすみという事になるでしょう。お忘れなく電燈を消して置いて下さい。私は小さい蝋燭《ろうそく》を片手に持って、暗い階段をのぼって行って、それは、だめ? 早すぎるわね。
 私、不良が好きなの。それも、札つきの不良が、すきなの。そうして私も、札つきの不良になりたいの。そうするよりほかに、私の生きかたが、無いような気がするの。あなたは、日本で一ばんの、札つきの不良でしょう。そうして、このごろはまた、たくさんのひとが、あなたを、きたならしい、けがらわしい、と言って、ひどく憎んで攻撃しているとか、弟から聞いて、いよいよあなたを好きになりました。あなたの事ですから、きっといろいろのアミをお持ちでしょうけれども、いまにだんだん私ひとりをすきにおなりでしょう。なぜだか、私には、そう思われて仕方が無いんです。そうして、あなたは私と一緒に暮して、毎日、たのしくお仕事が出来るでしょう。小さい時から私は、よく人から、「あなたと一緒にいると苦労を忘れる」と言われて来ました。私はいままで、人からきらわれた経験が無いんです。みんなが私を、いい子だと言って下さいました。だから、あなたも、私をおきらいの筈《はず》は、けっしてないと思うのです。
 逢《あ》えばいいのです。もう、いまは御返事も何も要りません。お逢いしとうございます。私のほうから、東京のあなたのお宅へお伺いすれば一ばん簡単におめにかかれるのでしょうけれど、お母さまが、何せ半病人のようで、私は附《つ》きっきりの看護婦兼お女中さんなのですから、どうしてもそれが出来ません。おねがいでございます。どうか、こちらへいらして下さい。ひとめお逢いしたいのです。そうして、すべては、お逢いすれば、わかること。私の口の両側に出来た幽《かす》かな皺《しわ》を見て下さい。世紀の悲しみの皺を見て下さい。私のどんな言葉より、私の顔が、私の胸の思いをはっきりあなたにお知らせする筈でございます。
 さいしょに差し上げた手紙に、私の胸にかかっている虹の事を書きましたが、その虹は螢《ほたる》の光みたいな、またはお星さまの光みたいな、そんなお上品な美しいものではないのです。そんな淡い遠い思いだったら、私はこんなに苦しまず、次第にあなたを忘れて行く事が出来たでしょう。私の胸の虹は、炎の橋です。胸が焼きこげるほどの思いなのです。麻薬中毒者が、麻薬が切れて薬を求める時の気持だって、これほどつらくはないでしょう。間違ってはいない、よこしまではないと思いながらも、ふっと、私、たいへんな、大馬鹿の事をしようとしているのではないかしら、と思って、ぞっとする事もあるんです
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