合い切れない小生意気なところを見せる。僕は田舎の百姓の息子でね、こんな小川の傍をとおると必ず、子供のころ、故郷の小川で鮒《ふな》を釣った事や、めだかを掬《すく》った事を思い出してたまらない気持になる」
 暗闇《くらやみ》の底で幽《かす》かに音立てて流れている小川に、沿った路《みち》を私たちは歩いていた。
「けれども、君たち貴族は、そんな僕たちの感傷を絶対に理解できないばかりか、軽蔑《けいべつ》している。」
「ツルゲーネフは?」
「あいつは貴族だ。だからいやなんだ」
「でも、猟人日記、……」
「うん、あれだけは、ちょっとうまいね」
「あれは、農村生活の感傷、……」
「あの野郎は田舎貴族、というところで妥協しようか」
「私もいまでは田舎者ですわ。畑を作っていますのよ。田舎の貧乏人」
「今でも、僕をすきなのかい」
 乱暴な口調であった。
「僕の赤ちゃんが欲しいのかい」
 私は答えなかった。
 岩が落ちて来るような勢いでそのひとの顔が近づき、遮二無二《しゃにむに》私はキスされた。性慾《せいよく》のにおいのするキスだった。私はそれを受けながら、涙を流した。屈辱の、くやし涙に似ているにがい涙であった。涙はいくらでも眼からあふれ出て、流れた。
 また、二人ならんで歩きながら、
「しくじった。惚《ほ》れちゃった」
 とそのひとは言って、笑った。
 けれども、私は笑う事が出来なかった。眉《まゆ》をひそめて、口をすぼめた。
 仕方が無い。
 言葉で言いあらわすなら、そんな感じのものだった。私は自分が下駄《げた》を引きずってすさんだ歩き方をしているのに気がついた。
「しくじった」
 とその男は、また言った。
「行くところまで行くか」
「キザですわ」
「この野郎」
 上原さんは私の肩をとんとこぶしで叩《たた》いて、また大きいくしゃみをなさった。
 福井さんとかいうお方のお宅では、みなさんがもうおやすみになっていらっしゃる様子であった。
「電報、電報。福井さん、電報ですよ」
 と大声で言って、上原さんは玄関の戸をたたいた。
「上原か?」
 と家の中で男のひとの声がした。
「そのとおり。プリンスとプリンセスと一夜の宿をたのみに来たのだ。どうもこう寒いと、くしゃみばかり出て、せっかくの恋の道行《みちゆき》もコメディになってしまう」
 玄関の戸が内からひらかれた。もうかなりの、五十歳を越したくらい
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