ンスのほうが、すきになったんですって。ダンサアの恋人でも出来たんでしょうよ」
「直さんたら、まあ、お酒の上にまた女だから、始末が悪いね」
「先生のお仕込みですもの」
「でも、直さんのほうが、たちが悪いよ。あんなお坊《ぼっ》ちゃんくずれは、……」
「あの」
 私は微笑《ほほえ》んで口をはさんだ。黙っていては、かえってこのお二人に失礼なことになりそうだと思ったのだ。
「私、直治の姉なんですの」
 おかみさんは驚いたらしく、私の顔を見直したが、チエちゃんは平気で、
「お顔がよく似ていらっしゃいますもの。あの土間の暗いところにお立ちになっていたのを見て、私、はっと思ったわ。直さんかと」
「左様でございますか」
 とおかみさんは語調を改めて、
「こんなむさくるしいところへ、よくまあ。それで? あの、上原さんとは、前から?」
「ええ、六年前にお逢いして、……」
 言い澱《よど》み、うつむき、涙が出そうになった。
「お待ちどおさま」
 女中さんが、おうどんを持って来た。
「召し上れ。熱いうちに」
 とおかみさんはすすめる。
「いただきます」
 おうどんの湯気に顔をつっ込み、するするとおうどんを啜《すす》って、私は、いまこそ生きている事の侘《わ》びしさの、極限を味わっているような気がした。
 ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、と低く口ずさみながら、上原さんが私たちの部屋にはいって来て、私の傍にどかりとあぐらをかき、無言でおかみさんに大きい封筒を手渡した。
「これだけで、あとをごまかしちゃだめですよ」
 おかみさんは、封筒の中を見もせずに、それを長火鉢の引出しに仕舞い込んで笑いながら言う。
「持って来るよ。あとの支払いは、来年だ」
「あんな事を」
 一万円。それだけあれば、電球がいくつ買えるだろう。私だって、それだけあれば、一年らくに暮せるのだ。
 ああ、何かこの人たちは、間違っている。しかし、この人たちも、私の恋の場合と同じ様に、こうでもしなければ、生きて行かれないのかも知れない。人はこの世の中に生れて来た以上は、どうしても生き切らなければいけないものならば、この人たちのこの生き切るための姿も、憎むべきではないかも知れぬ。生きている事。生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。
「とにかくね」
 と隣室
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