上原と書かれているような気がして、片足は足袋はだしのまま、その家の玄関に走り寄って、なおよく表札を見ると、たしかに上原二郎としたためられていたが、家の中は暗かった。
どうしようか、とまた瞬時立ちすくみ、それから、身を投げる気持で、玄関の格子戸《こうしど》に倒れかかるようにひたと寄り添い、
「ごめん下さいまし」
と言い、両手の指先で格子を撫《な》でながら、
「上原さん」
と小声で囁《ささや》いてみた。
返事は、有った。しかし、それは、女のひとの声であった。
玄関の戸が内からあいて、細おもての古風な匂いのする、私より三つ四つ年上のような女のひとが、玄関の暗闇《くらやみ》の中でちらと笑い、
「どちらさまでしょうか」
とたずねるその言葉の調子には、なんの悪意も警戒も無かった。
「いいえ、あのう」
けれども私は、自分の名を言いそびれてしまった。このひとにだけは、私の恋も、奇妙にうしろめたく思われた。おどおどと、ほとんど卑屈に、
「先生は? いらっしゃいません?」
「はあ」
と答えて、気の毒そうに私の顔を見て、
「でも、行く先は、たいてい、……」
「遠くへ?」
「いいえ」
と、可笑《おか》しそうに片手をお口に当てられて、
「荻窪ですの。駅の前の、白石《しらいし》というおでんやさんへおいでになれば、たいてい、行く先がおわかりかと思います」
私は飛び立つ思いで、
「あ、そうですか」
「あら、おはきものが」
すすめられて私は、玄関の内へはいり、式台に坐《すわ》らせてもらい、奥さまから、軽便鼻緒とでもいうのかしら、鼻緒の切れた時に手軽に繕うことの出来る革の仕掛紐《しかけひも》をいただいて、下駄を直して、そのあいだに奥さまは、蝋燭《ろうそく》をともして玄関に持って来て下さったりしながら、
「あいにく、電球が二つとも切れてしまいまして、このごろの電球は馬鹿高い上に切れ易《やす》くていけませんわね、主人がいると買ってもらえるんですけど、ゆうべも、おとといの晩も帰ってまいりませんので、私どもは、これで三晩、無一文の早寝ですのよ」
などと、しんからのんきそうに笑っておっしゃる。奥さまのうしろには、十二、三歳の眼の大きな、めったに人になつかないような感じのほっそりした女のお子さんが立っている。
敵。私はそう思わないけれども、しかし、この奥さまとお子さんは、いつかは私を敵と
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