私の作品は、どう考えたって、映画化も劇化もされる余地が無い。だから優れた作品なのだ、というわけでは無い。「罪と罰」でも、「田園交響楽」でも、「阿部一族」でも、ちゃんと映画になっている様子だ。
「女の決闘」の映画などは、在り得ない。

 どうも、自作を語るのは、いやだ。自己嫌悪で一ぱいだ。「わが子を語れ」と言われたら、志賀直哉ほどの達人でも、ちょっと躊躇《ちゅうちょ》するにちがいない。出来のいい子は、出来のいい子で可愛いし、出来の悪い子は、いっそう又かなしく可愛い。その間の機微を、あやまたず人に言い伝えるのは、至難である。それをまた、無理に語らせようとするのも酷ではないか。

 私は、私の作品と共に生きている。私は、いつでも、言いたい事は、作品の中で言っている。他に言いたい事は無い。だから、その作品が拒否せられたら、それっきりだ。一言も無い。

 私は、私の作品を、ほめてくれた人の前では極度に矮小《わいしょう》になる。その人を、だましているような気がするのだ。反対に、私の作品に、悪罵《あくば》を投げる人を、例外なく軽蔑する。何を言ってやがると思う。
 
 こんど河出書房から、近作だけ
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