。」
「それどころじゃない。軽い惑乱がはじまっているのだ。お湯に一時間くらい、阿呆《あほう》みたいにつかっている。風呂から這《は》い出るころには、ぼっとして、幽霊だ。部屋へ帰って来ると、女は、もう寝ている。枕もとに行燈《あんどん》の電気スタンドがついている。」
「女は、もう、ねむっているのか?」
「ねむっていない。目を、はっきりと、あいている。顔が蒼い。口をひきしめて、天井を見つめている。僕は、ねむり薬を呑んで、床へはいる。」
「女の?」
「そうじゃない。――寝てから五分くらいたって、僕は、そっと起きる。いや、むっくり起きあがる。」
「涙ぐんでいる。」
「いや、怒っている。立ったままで、ちらと女のほうを見る。女は蒲団の中でからだをかたくする。僕はその様を見て、なんの不足もなくなった。トランクから荷風の冷笑という本を取り出し、また床の中へはいる。女のほうへ背をむけたままで、一心不乱に本を読む。」
「荷風は、すこし、くさくないかね?」
「それじゃ、バイブルだ。」
「気持は、判るのだがね。」
「いっそ、草双紙ふうのものがいいかな?」
「君、その本は重大だよ。ゆっくり考えてみようじゃないか。怪
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