んでいる。ながくて五分間だね。」
「いや、一分でたくさんだ。五分間じゃ、それっきり沈んで死んでしまう。」
「お膳《ぜん》が来るね。お酒がついている。呑むかね?」
「待てよ。女は、東京駅で、おそくなりまして、と言ったきりで、それからあと、まだ何も言ってやしない。この辺で何か、もう一ことくらいあっていいね。」
「いや、ここで下手《へた》なことを言いだしたら、ぶちこわしだ。」
「そうかね。じゃまあ、だまって部屋へはいって、お膳のまえに二人ならんで坐る。へんだな。」
「ちっともへんじゃない。君は、女中と何か話をしていれば、それで、いいじゃないか。」
「いや、そうじゃない。女が、その女中さんをかえしてしまうのだ。こちらでいたしますから、と低いがはっきり言うのだ。不意に言うのだ。」
「なるほどね。そんな女なのだね。」
「それから、男の児のような下手な手つきで、僕にお酌《しゃく》をする。すましている。お銚子《ちょうし》を左の手に持ったまま、かたわらの夕刊を畳のうえにひろげ、右の手を畳について、夕刊を読む。」
「夕刊には、加茂川の洪水の記事が出ている。」
「ちがう。ここで時世の色を点綴《てんてい》させるのだね。動物園の火事がいい。百匹にちかいお猿が檻《おり》の中で焼け死んだ。」
「陰惨すぎる。やはり、明日の運勢の欄あたりを読むのが自然じゃないか。」
「僕はお酒をやめて、ごはんにしよう、と言う。女とふたりで食事をする。たまご焼がついている。わびしくてならぬ。急に思い出したように、箸《はし》を投げて、机にむかう。トランクから原稿用紙を出して、それにくしゃくしゃ書きはじめる。」
「なんの意味だね?」
「僕の弱さだ。こう、きざに気取らなければ、ひっこみがつかないのだ。業《ごう》みたいなものだ。ひどく不気嫌になっている。」
「じたばたして来たな。」
「書くものがない。いろは四十七文字を書く。なんどもなんども、繰りかえし繰りかえし書く。書きながら女に言う。いそぎの仕事を思い出した。忘れぬうちに片づけてしまいたいから、あなたは、その間に、まちを見物していらっしゃい。しずかな、いいまちです。」
「いよいよぶちこわしだね。仕方がない。女は、はあ、と承諾する。着がえしてから部屋を出る。」
「僕は、ひっくりかえるようにして寝ころぶ。きょろきょろあたりを見まわす。」
「夕刊の運勢欄を見る。一白水星、旅行見
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