佐渡
太宰治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)佐渡夷《さどえびす》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)総|噸《トン》数、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]
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おけさ丸。総|噸《トン》数、四百八十八噸。旅客定員、一等、二十名。二等、七十七名。三等、三百二名。賃銀、一等、三円五十銭。二等、二円五十銭。三等、一円五十銭。粁程《キロてい》、六十三粁。新潟出帆、午後二時。佐渡夷《さどえびす》着、午後四時四十五分の予定。速力、十五|節《ノット》。何しに佐渡へなど行く気になったのだろう。十一月十七日。ほそい雨が降っている。私は紺絣《こんがすり》の着物、それに袴《はかま》をつけ、貼柾《はりまさ》の安下駄《やすげた》をはいて船尾の甲板《かんぱん》に立っていた。マントも着ていない。帽子も、かぶっていない。船は走っている。信濃《しなの》川を下っているのだ。するする滑り、泳いでいる。川の岸に並び立っている倉庫は、つぎつぎに私を見送り、やがて遠のく。黒く濡れた防波堤が現われる。その尖端に、白い燈台が立っている。もはや、河口である。これから、すぐ日本海に出るのだ。ゆらりと一揺れ大きく船がよろめいた。海に出たのである。エンジンの音が、ここぞと強く馬力をかけた。本気になったのである。速力は、十五節。寒い。私は新潟の港を見捨て、船室へはいった。二等船室の薄暗い奥隅に、ボオイから借りた白い毛布にくるまって寝てしまった。船酔いせぬように神に念じた。船には、まるっきり自信が無かった。心細い限りである。ゆらゆら動く、死んだ振りをしていようと思った。眼をつぶって、じっとしていた。
何しに佐渡へなど行くのだろう。自分にも、わからなかった。十六日に、新潟の高等学校で下手な講演をした。その翌日、この船に乗った。佐渡は、淋《さび》しいところだと聞いている。死ぬほど淋しいところだと聞いている。前から、気がかりになっていたのである。私には天国よりも、地獄のほうが気にかかる。関西の豊麗、瀬戸内海の明媚《めいび》は、人から聞いて一応はあこがれてもみるのだが、なぜだか直ぐに行く気はしない。相模《さがみ》、駿河《するが》までは行ったが、それから先は、私は未だ一度も行って見たことが無い。もっと、としとってから行ってみたいと思っている。心に遊びの余裕が出来てから、ゆっくり関西を廻ってみたいと思っている。いまはまだ、地獄の方角ばかりが、気にかかる。新潟まで行くのならば、佐渡へも立ち寄ろう。立ち寄らなければならぬ。謂《い》わば死に神の手招きに吸い寄せられるように、私は何の理由もなく、佐渡にひかれた。私は、たいへんおセンチなのかも知れない。死ぬほど淋しいところ。それが、よかった。お恥ずかしい事である。
けれども船室の隅に、死んだ振りして寝ころんで、私はつくづく後悔していた。何しに佐渡へ行くのだろう。何をすき好んで、こんな寒い季節に、もっともらしい顔をして、袴をはき、独《ひと》りで、そんな淋しいところへ、何も無いのが判っていながら。いまに船酔いするかも知れぬ。誰も褒《ほ》めない。自分を、ばかだと思った。いくつになっても、どうしてこんな、ばかな事ばかりするのだろう。私は、まだ、こんなむだな旅行など出来る身分では無いのだ。家の経済を思えば、一銭のむだ使いも出来ぬ筈《はず》であるのに、つい、ふとした心のはずみから、こんな、つまらぬ旅行を企てる。少しも気がすすまないのに、ふいと言い出したら、必ずそれを意地になって実行する。そうしないと、誰かに嘘をついたような気がして、いやである。負けるような気がして、いやである。ばかな事と知りながら実行して、あとで劇烈な悔恨の腹痛に転輾《てんてん》する。なんにもならない。いくつになっても、同じ事を繰り返してばかりいるのである。こんどの旅行も、これは、ばかな旅行だ。なんだって、佐渡なんかへ、行って来なければいけないのだろう。意味が無いじゃないか。
私は毛布にくるまって船室の奥隅に寝ころびながら、実に、どうにも不愉快であった。自分に、腹が立って、たまらなかった。佐渡へ行ったって、悪い事ばかり起るに違いないと思った。しばらく眼をつぶって、自分を馬鹿、のろまと叱っていたが、やがて、むっくり起きてしまった。船酔いして吐きたくなったからでは無い。その反対である。一時間ほど凝《じ》っと身動きせず、謂《い》わば死んだ振りをしていたのであるが、船酔いの気配は無かった。大丈夫だと思ったのである。そう思ったら、寝ているのが、ばかばかしくなって起きてしまった。立ち上ったら、よろめいた。船は、かなり動揺しているのである。壁に凭《もた》れ、柱に縋《すが》り、きざな千鳥足で船室から出て、船腹の甲板に立った。私は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。きょろきょろしたのである。佐渡は、もうすぐそこに見えている。全島紅葉して、岸の赤土の崖《がけ》は、ざぶりざぶりと波に洗われている。もう、来てしまったのだ。それにしては少し早すぎる。まだ一時間しか経っていない。旅客もすべて落ちついて、まだ船室に寝そべっている。甲板にも、四十年配の男が、二、三人出ているが、一様にのんびり前方の島を眺め、煙草をふかしている。誰も興奮していない。興奮しているのは私だけである。島の岬に、燈台が立っている。もう、来てしまった。けれども、誰も騒がない。空は低く鼠色。雨は、もうやんでいる。島は、甲板から百メートルと離れていない。船は、島の岸に沿うて、平気で進む。私にも、少しわかって来た。つまり船は、この島の陰のほうに廻って、それから碇泊《ていはく》するのだろうと思った。そう思ったら、少し安心した。私は、よろめきながら船尾のほうへ廻ってみた。新潟は、いや日本の内地は、もう見えない。陰鬱な、寒い海だ。水が真黒の感じである。スクリュウに捲き上げられ沸騰《ふっとう》し飛散する騒騒《そうそう》の迸沫《ほうまつ》は、海水の黒の中で、鷲のように鮮やかに感ぜられ、ひろい澪《みお》は、大きい螺旋《ぜんまい》がはじけたように、幾重にも細かい柔軟の波線をひろげている。日本海は墨絵《すみえ》だ、と愚にもつかぬ断案を下して、私は、やや得意になっていた。水底を見て来た顔の小鴨《こがも》かな、つまりその顔であったわけだが、さらに、よろよろ船腹の甲板に帰って来て眼前の無言の島に対しては、その得意の小鴨も、首をひねらざるを得なかった。船も島も、互いに素知らぬ顔をしているのである。島は、船を迎える気色が無い。ただ黙って見送っている。船もまた、その島に何の挨拶もしようとしない。同じ歩調で、すまして行き過ぎようとしているのだ。島の岬の燈台は、みるみる遠く離れて行く。船は平気で進む。島の陰に廻るのかと思って少し安心していたのだが、そうでもないらしい。島は、置きざりにされようとしている。これは、佐渡ヶ島でないのかも知れぬ。小鴨は、大いに狼狽《ろうばい》した。きのう新潟の海岸から、望見したのも、この島だ。
「あれが、佐渡だね。」
「そうです。」高等学校の生徒は、答えた。
「灯が見えるかね。佐渡は寝たかよ灯が見えぬというのは、起きていたら灯が見えるという反語なのだから、灯が見える筈だね。」つまらぬ理窟を言った。
「見えません。」
「そうかね。それじゃ、あの唄は嘘だね。」
生徒たちは笑った。その島だ。間違い無い。たしかに、この島であったのだが、けれどもいま汽船は、ここを素知らぬ振りして通り過ぎようとしている。全く黙殺している。これは佐渡ヶ島でないのかも知れぬ。時間から言っても、これが佐渡だとすると、余りにも到着が早すぎる。佐渡では無いのだ。私は恥ずかしさに、てんてこ舞いした。きのう新潟の砂丘で、私がひどくもったい振り、あれが佐渡だね、と早合点の指さしをして、生徒たちは、それがとんでも無い間違いだと知っていながら私が余りにも荘重な口調で盲断しているので、それを嘲笑《ちょうしょう》して否定するのが気の毒になり、そうですと答えてその場を取りつくろってくれたのかも知れない。そうして後で、私を馬鹿先生ではないかと疑い、灯が見えるかねと言い居ったぞ等と、私の口真似《くちまね》して笑い合っているのに違いないと思ったら、私は矢庭《やにわ》に袴を脱ぎ捨て海に投じたくなった。けれども、また、ふと、いやそんな事は無い。地図で見ても、新潟の近くには佐渡ヶ島一つしか無かった筈だ。きのうの生徒も、皆、誠実な人たちだった。これは、とにかく佐渡に違いないとも思い返してみるのだが、さて、確信は無い。汽船は、容赦《ようしゃ》なく進む。旅客は、ひっそりしている。私ひとりは、甲板で、うろうろしている。気が気でない。誰かに聞いてみようかと幾度となく思うのだが、若《も》し之《これ》が佐渡ヶ島だった場合、佐渡行の汽船に乗り込んでいながら、「あれは何という島ですか。」という質問くらい馬鹿げたものは無い。私は、狂人と思われるかも知れない。私はその質問だけは、どうしても敢行できなかった。銀座を歩きながら、ここは大阪ですかという質問と同じくらいに奇妙であろう。私は冗談でなく懊悩《おうのう》と、焦躁を感じた。知りたい。この汽船の大勢の人たちの中で、私ひとりだけが知らない変な事実があるのだ。たしかにあるのだ。海面は、次第に暗くなりかけて、問題の沈黙の島も黒一色になり、ずんずん船と離れて行く。とにかく之は佐渡だ。その他には新潟の海に、こんな島は絶対に無かった筈だ。佐渡にちがい無い。ぐるりと此の島を大迂回して、陰の港に到着するという仕組なのだろう。そう考えるより他は無いと、私は窮余の断案を下して落ち附こうとしたが、やはり、どうにも浮かぬ気持ちであった。ひょいと前方の薄暗い海面をすかし眺めて、私は愕然《がくぜん》とした。実に、意外な発見をしたのだ。誇張では無く、恐怖の感をさえ覚えた。ぞっとしたのである。汽船の真直ぐに進み行く方向、はるか前方に、幽《かす》かに蒼《あお》く、大陸の影が見える。私は、いやなものを見たような気がした。見ない振りをした。けれども大陸の影は、たしかに水平線上に薄蒼く見えるのだ。満洲ではないかと思った。まさか、と直ぐに打ち消した。私の混乱は、クライマックスに達した。日本の内地ではないかと思った。それでは方角があべこべだ。朝鮮。まさか、とあわてて打ち消した。滅茶滅茶になった。能登半島。それかも知れぬと思った時に、背後の船室は、ざわめきはじめた。
「さあ、もう見えて来ました。」という言葉が、私の耳にはいった。
私は、うんざりした。あの大陸が佐渡なのだ。大きすぎる。北海道とそんなに違わんじゃないかと思った。台湾とは、どうかしら等と真面目に考えた。あの大陸の影が佐渡だとすると、私の今迄の苦心の観察は全然まちがいだったというわけになる。高等学校の生徒は、私に嘘を教えたのだ。すると、この眼前の黒いつまらぬ島は、一体なんだろう。つまらぬ島だ。人を惑《まど》わすものである。こういう島も、新潟と佐渡の間に、昔から在ったのかも知れぬ。私は、中学時代から地理の学科を好まなかったのだ。私は、何も知らない。したたかに自信を失い、観察を中止して船室に引き上げた。あの雲煙|模糊《もこ》の大陸が佐渡だとすると、到着までには、まだ相当の間がある。早くから騒ぎまわって損をした。私は、再びうんざりして、毛布を引っぱり船室の隅に寝てしまった。
けれども他の船客たちは、私と反対に、むくりむくり起きはじめ、身仕度にとりかかるやら、若夫人は、旦那のオオヴァを羽織って甲板に勇んで出て見るやら、だんだん騒がしくなるばかりである。私は、また起きた。自分ながら間抜けていると思った。ボオイが、毛布の貸賃を取りにやって来た。
「もう、すぐですか。」私は、わざと寝呆《ねぼ》けたような声で尋ねた。ボオイは、ちらりと腕時計を見て、
「もう、十|
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