ら、私は矢庭《やにわ》に袴を脱ぎ捨て海に投じたくなった。けれども、また、ふと、いやそんな事は無い。地図で見ても、新潟の近くには佐渡ヶ島一つしか無かった筈だ。きのうの生徒も、皆、誠実な人たちだった。これは、とにかく佐渡に違いないとも思い返してみるのだが、さて、確信は無い。汽船は、容赦《ようしゃ》なく進む。旅客は、ひっそりしている。私ひとりは、甲板で、うろうろしている。気が気でない。誰かに聞いてみようかと幾度となく思うのだが、若《も》し之《これ》が佐渡ヶ島だった場合、佐渡行の汽船に乗り込んでいながら、「あれは何という島ですか。」という質問くらい馬鹿げたものは無い。私は、狂人と思われるかも知れない。私はその質問だけは、どうしても敢行できなかった。銀座を歩きながら、ここは大阪ですかという質問と同じくらいに奇妙であろう。私は冗談でなく懊悩《おうのう》と、焦躁を感じた。知りたい。この汽船の大勢の人たちの中で、私ひとりだけが知らない変な事実があるのだ。たしかにあるのだ。海面は、次第に暗くなりかけて、問題の沈黙の島も黒一色になり、ずんずん船と離れて行く。とにかく之は佐渡だ。その他には新潟の海に、こんな
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