島は絶対に無かった筈だ。佐渡にちがい無い。ぐるりと此の島を大迂回して、陰の港に到着するという仕組なのだろう。そう考えるより他は無いと、私は窮余の断案を下して落ち附こうとしたが、やはり、どうにも浮かぬ気持ちであった。ひょいと前方の薄暗い海面をすかし眺めて、私は愕然《がくぜん》とした。実に、意外な発見をしたのだ。誇張では無く、恐怖の感をさえ覚えた。ぞっとしたのである。汽船の真直ぐに進み行く方向、はるか前方に、幽《かす》かに蒼《あお》く、大陸の影が見える。私は、いやなものを見たような気がした。見ない振りをした。けれども大陸の影は、たしかに水平線上に薄蒼く見えるのだ。満洲ではないかと思った。まさか、と直ぐに打ち消した。私の混乱は、クライマックスに達した。日本の内地ではないかと思った。それでは方角があべこべだ。朝鮮。まさか、とあわてて打ち消した。滅茶滅茶になった。能登半島。それかも知れぬと思った時に、背後の船室は、ざわめきはじめた。
「さあ、もう見えて来ました。」という言葉が、私の耳にはいった。
 私は、うんざりした。あの大陸が佐渡なのだ。大きすぎる。北海道とそんなに違わんじゃないかと思った。台湾とは、どうかしら等と真面目に考えた。あの大陸の影が佐渡だとすると、私の今迄の苦心の観察は全然まちがいだったというわけになる。高等学校の生徒は、私に嘘を教えたのだ。すると、この眼前の黒いつまらぬ島は、一体なんだろう。つまらぬ島だ。人を惑《まど》わすものである。こういう島も、新潟と佐渡の間に、昔から在ったのかも知れぬ。私は、中学時代から地理の学科を好まなかったのだ。私は、何も知らない。したたかに自信を失い、観察を中止して船室に引き上げた。あの雲煙|模糊《もこ》の大陸が佐渡だとすると、到着までには、まだ相当の間がある。早くから騒ぎまわって損をした。私は、再びうんざりして、毛布を引っぱり船室の隅に寝てしまった。
 けれども他の船客たちは、私と反対に、むくりむくり起きはじめ、身仕度にとりかかるやら、若夫人は、旦那のオオヴァを羽織って甲板に勇んで出て見るやら、だんだん騒がしくなるばかりである。私は、また起きた。自分ながら間抜けていると思った。ボオイが、毛布の貸賃を取りにやって来た。
「もう、すぐですか。」私は、わざと寝呆《ねぼ》けたような声で尋ねた。ボオイは、ちらりと腕時計を見て、
「もう、十|分《ぷん》でございます。」と答えた。
 私は、あわてた。何が何やら、わからなかった。鞄《かばん》から毛糸の頸巻《くびまき》を取り出し、それを頸にぐるぐる巻いて甲板に出て見た。もう船は、少しも動揺していない。エンジンの音も優しく、静かである。空も、海も、もうすっかり暗くなって、雨が少し降っている。前方の闇を覗《のぞ》くと、なるほど港の灯が、ぱらぱら、二十も三十も見える。夷港にちがいない。甲板には大勢の旅客がちゃんと身仕度をして出て来ている。
「パパ、さっきの島は?」赤いオオヴァを着た十歳くらいの少女が、傍の紳士に尋ねている。私は、人知れず全身の注意を、その会話に集中させた。この家族は、都会の人たちらしい。私と同様に、はじめて佐渡へやって来た人たちに違いない。
「佐渡ですよ。」と父は答えた。
 そうか、と私は少女と共に首肯《うなず》いた。なおよく父の説明を聞こうと思って、私は、そっとその家族のほうへすり寄った。
「パパも、よくわからないのですがね。」と紳士は不安げに言い足した。「つまり島の形が、こんなぐあいに、」と言って両手で島の形を作って見せて、「こんなぐあいになっていて、汽船がここを走っているので、島が二つあるように見えたのでしょう。」
 私は少し背伸びして、その父の手の形を覗いて、ああ、と全く了解した。すべて少女のお陰である。つまり佐渡ヶ島は、「工」の字を倒《さか》さにしたような形で、二つの並行した山脈地帯を低い平野が紐《ひも》で細く結んでいるような状態なのである。大きいほうの山脈地帯は、れいの雲煙模糊の大陸なのである。さきの沈黙の島は、小さいほうの山脈地帯なのである。平野は、低いから全く望見できなかった。そうして、船は、平野の港に到着した。それだけの事なのである。よく出来ていると思った。
 佐渡へ上陸した。格別、内地と変った事は無い。十年ほど前に、北海道へ渡った事があったけれど、上陸第一歩から興奮した。土の踏み心地が、まるっきり違うのである。土の根が、ばかに大きい感じがした。内地の、土と、その地下構造に於いて全然別種のものだと思った。必ずや大陸の続きであろうと断定した。あとで北海道生れの友人に、その事を言ったら、その友人は私の直観に敬服し、そのとおりだ、北海道は津軽海峡に依《よ》って、内地と地質的に分離されているのであって、むしろアジア大陸と地質的に同種なのであ
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