る、といろいろの例証をして、くわしく説明してくれた。私は、佐渡の上陸第一歩に於いても、その土の踏み心地を、こっそりためしてみたのであるが、何という事も無かった。内地のそれと、同じである。これは新潟の続きである、と私は素早く断案を下した。雨が降っている。私は傘《かさ》もマントも持っていない。五尺六寸五分の地質学者は、当惑した。もうそろそろ佐渡への情熱も消えていた。このまま帰ってもいいと思った。どうしようかと迷っていた。私は、港の暗い広場を、鞄をかかえてうろうろしていたのである。
「だんな。」宿の客引きである。
「よし、行こう。」
「どこへですか?」老いた番頭のほうで、へどもどした。私の語調が強すぎたのかも知れない。
「そこへ行くのさ。」私は番頭の持っている提燈《ちょうちん》を指さした。福田旅館と書かれてある。
「はは。」老いた番頭は笑った。
自動車を呼んで貰って、私は番頭と一緒に乗り込んだ。暗い町である。房州あたりの漁師まちの感じである。
「お客が多いのかね。」
「いいえ、もう駄目です。九月すぎると、さっぱりいけません。」
「君は、東京のひとかね。」
「へへ。」白髪の四角な顔した番頭は、薄笑いした。
「福田旅館は、ここでは、いいほうなんだろう?」あてずっぽうでも無かった。実は、新潟で、生徒たちから、二つ三ついい旅館の名前を聞いて来ていたのだ。福田旅館は、たしかにその筆頭に挙げられていたように記憶していた。先刻、港の広場で、だんなと声をかけられ、ちらと提燈を見ると福田と書かれていたので、途端に私も決意したのだ。とにかく、この夷《えびす》に一泊しようと。「今夜これから直ぐに相川まで行ってしまおうかとも思っていたのだが、雨も降っているし心細くなっているところへ、君が声をかけたんだ。提燈を見たら、福田旅館と書かれていたので、ここへ一泊と、きめてしまったんだ。僕は、新潟の人から聞いて来たんだ。提燈を見て、はっと思い出したのだ。君のところが一等いい宿屋だと皆、言っていたよ。」
「おそれいります。」番頭は、当惑そうに頭へ手をやって、「ほんの、あばらやですよ。」しゃれた事を言った。
宿へ着いた。あばらやでは無かった。小さい宿屋ではあるが、古い落ちつきがあった。後で女中さんから聞いた事だが、宮様のお宿をした事もあるという。私の案内された部屋も悪くなかった。部屋に、小さい炉が切ってあった。風呂へはいって鬚《ひげ》を剃《そ》り、それから私は、部屋の炉の前に端然と正座した。新潟で一日、高等学校の生徒を相手にして来た余波で私は、ばかに行儀正しくなっていた。女中さんにも、棒を呑んだような姿勢で、ひどく切口上な応対をしていた。自分ながら可笑《おか》しかったが、急にぐにゃぐにゃになる事も出来なかった。食事の時も膝《ひざ》を崩さなかった。ビイルを一本飲んだ。少しも酔わなかった。
「この島の名産は、何かね。」
「はい、海産物なら、たいていのものが、たくさんとれます。」
「そうかね。」
会話が、とぎれる。しばらくして、やおら御質問。
「君は、佐渡の生れかね。」
「はい。」
「内地へ、行って見たいと思うかね。」
「いいえ。」
「そうだろう。」何がそうだろうだか、自分にもわからなかった。ただ、ひどく気取っているのである。また、しばらく会話が、とぎれる。私は、ごはんを四杯たべた。こんなに、たくさんたべた事は無い。
「白米は、おいしいね。」白米なのである。私は少したべすぎたのに気がついて、そんなてれ隠しの感懐を述べた。
「そうでしょうか。」女中さんは、さっきから窮屈がっているようである。
「お茶をいただきましょう。」
「お粗末さまでした。」
「いや。」
私は、さむらいのようである。ごはんを食べてしまって部屋に一人で端座していると、さむらいは睡魔に襲われるところとなった。ひどく眠い。机の上の電話で、階下の帳場へ時間を聞いた。さむらいには時計が無いのである。六時四十分。いまから寝ては、宿の者に軽蔑されるような気がした。さむらいは立ち上り、どてらの上に紺絣《こんがすり》の羽織《はおり》をひっかけ、鞄から財布を取り出し、ちょっとその内容を調べてから、真面目くさって廊下へ出た。のっしのっしと階段を降り、玄関に立ちはだかり、さっきの番頭に下駄と傘を命じ、
「まちを見て来ます。」と断定的な口調で言って、旅館を出た。
旅館を数歩出ると私は、急に人が変ったように、きょろきょろしはじめた。裏町ばかりを選んで歩いた。雨は、ほとんどやんでいる。道が悪かった。おまけに、暗い。波の音が聞える。けれども、そんなに淋しくない。孤島の感じは無いのである。やはり房州あたりの漁村を歩いているような気持なのである。
やっと見つけた。軒燈には、「よしつね」と書かれてある。義経でも弁慶でもかまわない。私は
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