を背後に従え、公園の森の中をゆったり歩きながら、私は大いに自信があった。果して私が、老いぼれのぼんくらであるかどうか、今に見せてあげる。少年は、私について歩いているうちに次第に不安になって来た様子で、ひとりで何かと呟《つぶや》きはじめた。
「僕の母はね、死んだのだよ。僕の父はね、恥ずかしい商売をしているんだよ。聞いたら驚くよ。僕は、田舎者だよ。モラルなんて無いんだ。ピストルが欲しいな。パンパンと電線をねらって撃つと、電線は一本ずつプツンプツンと切れるんだ。日本は、せまいな。かなしい時には、素はだかで泳ぎまくるのが一番いいんだ。どうして悪いんだろう。なんにも出来やしないじゃないか。めったな事は言われねえ。説教なんて、まっぴらだ。本を読めば書いてあらあ。放《ほ》って置いてくれたって、いいじゃないか。僕はね、さえき五一郎って言うんだよ。数学は、あまり得意じゃないんだ。怪談が、一ばん好きだ。でもね、おばけの出方には、十三とおりしか無いんだ。待てよ、提燈《ちょうちん》ヒュウのモシモシがあるから、十四種類だ。つまらないよ。」
 わけの判らぬような事を、次から次と言いつづけるのであるが私は一切之を黙殺した。聞えない振りをして森を通り抜け、石段を降り、弁天様の境内を横切り、動物園の前を通って池に出た。池をめぐって半町ほど歩けば目的の茶店である。私は残忍な気持で、ほくそ笑んだ。さっきこの少年が、なあんだ遊びたがっていやがる、と言ったけれど、私の心の奥底には、たしかにそんな軽はずみな虫も動いていたようである。それから、もう一つ。次の時代の少年心理を、さぐってみたいという、けちな作家意識も、たしかに働いて、自分から進んでこの少年に近づいていったところもあったのである。ばかな事をしたものだ。おかげで私はそれから、不幸、戦慄《せんりつ》、醜態の連続の憂目を見なければならなくなったのである。
 茶店に到着して、すなわち床几《しょうぎ》にあぐらをかいて、静かに池の面に視線を放ち、これでよし、と再び残忍な気持でほくそ笑んだところ迄は上出来であったが、それからが、いけなかった。私がおしるこ二つ、と茶店の老婆に命じたところ、少年は、
「親子どんぶりがあるかね?」と私の傍に大きなあぐらをかいて、落ちついて言い出したので、私は狼狽した。私の袂《たもと》には、五十銭紙幣一枚しか無いのである。これは先刻、家を出る時、散髪せよと家の者に言われて、手渡されたものなのである。けれども私は、悪質の小説の原稿を投函して、たちまち友人知己の嘲笑が、はっきり耳に聞え、いたたまらなくなってその散髪の義務をも怠ってしまったのである。
「待て、待て。」と私は老婆を呼びとめた。全身かっと熱くなった。「親子どんぶりは、いくらだね。」下等な質問であった。
「五十銭でございます。」
「それでは、親子どんぶり一つだ。一つでいい。それから、番茶を一ぱい下さい。」
「ちえっ、」少年は躊躇なく私をせせら笑った。「ちゃっかりしていやがら。」
 私は、溜息をついた。なんと言われても、致しかたの無いことである。私は急に、いやになった。こんなに誇りを傷つけられて、この上なにを少年に説いてやろうとするのか。私は何も言いたくなくなった。
「君は、学生かい?」と私は、実に優しい口調で、甚《はなは》だ月並な質問を発してしまった。眼は、それでもやはり習慣的に池の面を眺めている。二尺ちかい緋鯉《ひごい》がゆらゆら私たちの床几の下に泳ぎ寄って来た。
「きのうまでは、学生だったんだ。きょうからは、ちがうんだ。どうでもいいじゃないか、そんな事は。」少年は、元気よく答える。
「そうだね。僕もあまり人の身の上に立ちいることは好まない。深く立ちいって聞いてみたって、僕には何も世話の出来ない事が、わかっているんだから。」
「俗物だね、君は。申しわけばかり言ってやがる。目茶苦茶や。」
「ああ、目茶苦茶なんだ。たくさん言いたい事も、あったんだけれど、いやになった。だまって景色でも見ているほうがいいね。」
「そんな身分になりたいよ。僕なんて、だまっていたくても、だまって居れない。心にもない道化でも言っていなけれや、生きて行けないんだ。」大人《おとな》びた、誠実のこもった声であった。私は思わず振り向いて、少年の顔を見直した。
「それは、誰の事を言っているんだ。」
 少年は、不機嫌に顔をしかめて、
「僕の事じゃないか。僕は、きのう迄、良家の家庭教師だったんだぜ。低能のひとり娘に代数を教えていたんだ。僕だって、教えるほど知ってやしない。教えながら覚えるという奴さ。そこは、ごまかしが、きくんだけども、幇間《ほうかん》の役までさせられて、」ふっと口を噤《つぐ》んだ。

       第三回

 茶店の老婆が、親子どんぶりを一つ、盆《ぼん》に捧げて持って来た。
「食べたら、どうかね。」
 少年は、急に顔を真赤にして、「君は? 食べないの?」と人が変ったようなおどおどした口調で言って、私の顔を覗《のぞ》き込む。
「僕は、要《い》らない。」私は、出来るだけ自然の風を装って番茶を飲み、池の向うの森を眺めた。
「いただきます。」と少年の、つつましい小さい声が聞えた。
「どうぞ。」と私は、少年をてれさせないように努めて淡泊の返事をして、また、ゆっくりと番茶を啜《すす》り、少年の事になど全く無関心であるかのように池の向うの森ばかりを眺めていた。あの森の中には、動物園が在る。きあっと、裂帛《れっぱく》の悲鳴が聞えた。
「孔雀《くじゃく》だよ。いま鳴いたのは孔雀だよ。」私はそう言って、ちょっと少年のほうを振り向いてみると、少年は、あぐらの中に、どんぶりを置き、顔を伏せて、箸《はし》を持った右手の甲で矢鱈《やたら》に両方の眼をこすっている。泣いている。
 その時には、私は、ただ困った。何事も知らぬ顔して、池のほうへ、そっと視線を返し、自分の心を落ちつかせる為に袂から煙草《たばこ》を取出して一服吸った。
「僕の名はね、」あきらかに泣きじゃくりの声で、少年は、とぎれとぎれに言い出した。「僕の名はね、佐伯《さえき》五一郎って言うんだよ。覚えて置いてね。僕は、きっと御恩返しをしてやるよ。君は、いい人だね。泣いたりなんかして、僕は、だらしがないなあ。僕はごはんを食べていると、時々むしょうに侘《わび》しくなるんだ。悲しい事ばかり、一度にどっと思い出しちゃうんだ。僕の父はね、恥ずかしい商売をしているんだ。田舎の小学校の先生だよ。二十年以上も勤めて、それでも校長になれないんだ。頭が悪いんだよ。息子《むすこ》の僕にさえ、恥ずかしがっているんだよ。生徒も、みんな、ばかにしているんだ。マンケという綽名《あだな》だよ。だから、僕は、偉くならなくちゃいけないんだ。」
「小学校の先生が、なぜそんなに恥ずかしい商売なんだ。」私は、思わず大声になり、口を尖《とが》らせて言った。「僕だって、小説が書けなくなったら、田舎の小学校の先生になろうと思っている。本当に良心をもって、情熱をぶち込める仕事は、この二つしか世の中に無いと思っている。」
「知らないんだよ、君は。」少年の声も、すこし大きくなった。「知らないんだよ。村の金持の子供には、先生のほうから御機嫌をとらなくちゃいけないんだ。校長や、村長との関係も、それや、ややこしいんだぜ。言いたくもねえや。僕は、先生なんていやだ。僕は、本気に勉強したかったんだ。」
「勉強したら、いいじゃないか。」根が、狭量の私は、先刻この少年から受けた侮辱を未だ忘れかねて、やはり意地悪い言いかたをしていた。「さっきの元気は、どうしたんだい。だらしの無い奴だ。男は、泣くものじゃないよ。そら、鼻でもかんで、しゃんとし給え。」私は、やはり池の面を眺めたままで、懐中の一帖の鼻紙を、少年の膝のほうに、ぽんと抛ってやった。
 少年は、くすと笑って、それから素直に鼻をかんで、
「なんと言ったらいいのかなあ。へんな気持なんだよ。親爺《おやじ》を喜ばせようと思って勉強していても、なんだか落ちつかないんだよ。五次方程式が代数的に解けるものだか、どうだか、発散級数の和が、有ろうと無かろうと、今は、そんな迂遠《うえん》な事をこね廻している時じゃないって、誰かに言われているような気がするのだ。個人の事情を捨てろって、こないだも、上級の生徒に言われたよ。でも、そんな事を言う生徒は、たいてい頭の悪い、不勉強な奴《やつ》にきまっているんだ。だから、なんだか、へんな気持になっちゃうんだよ。迂遠な学問なんかを、している時じゃ無い。肉体を、ぶっつけて行く練習だけの時代なのかしら。考えると、とても心細くなるんだよ。」
「君はそれを怠惰《たいだ》のいい口実にして、学校をよしちゃったんだな。事大主義というんだよ。大地震でも起って、世界がひっくりかえったら、なんて事ばかり夢想している奴なんだね、君は。」私は、多少いい気持でお説教をはじめた。「たった一日だけの不安を、生涯の不安と、すり変えて騒ぎまわっているのだ。君は秩序のネセシティを信じないかね。ヴァレリイの言葉だけれどもね、」と私は軽く眼をつぶり、あれこれと考えをまとめる振りして、やがて眼をひらき、中々きざな口調で、「法律も制度も風俗も、昔から、ちっとは気のきいた思想家に、いつでも攻撃され、軽蔑されて来たものだ。事実また、それを揶揄《やゆ》し皮肉《ひにく》るのは、いい気持のものさ。けれども、その皮肉は、どんなに安易な、危険な遊戯であるか知らなければならぬ。なんの責任も無いんだからね。法律、制度、風俗、それがどんなに、くだらなく見えても、それが無いところには、知識も自由も考えられない。大船に乗っていながら、大船の悪口を言っているようなものさ。海に飛び込んだら、死ぬばかりだ。知識も、自由思想も、断じて自然の産物じゃない。自然は自由でもなく自然は知識の味方をするものでもないと言うんだ。知識は、自然と戦って自然を克服し、人為を建設する力だ。謂わば、人工の秩序への努力だ。だから、どうしても、秩序とは、反自然的な企画なんだが、それでも、人は秩序に拠《よ》らなければ、生き伸びて行く事が出来なくなっている、というんだがね。君が時代に素直で、勉強を放擲《ほうてき》しようとする気持もわかるけれど、秩序の必然性を信じて、静かに勉強を続けて行くのも亦《また》、この際、勇気のある態度じゃないのかね。発散級数の和でも、楕円函数でも、大いに研究するんだね。」私は、やや得意であった。言い終って、少年の方を、ちらと伺って見ると、少年は、私のお説教を半分も聞いていなかったらしく、無心に、ごはんを食べていた。「どうかね。わかったかね。」私は、しつこく賛意を求めた。少年は顔を挙げ、ごはんを呑み込んでから言った。
「ヴァレリイってのは、フランスの人でしょう?」
「そうだ。一流の文明批評家だ。」
「フランスの人だったら、だめだ。」
「なぜ?」
「戦敗国じゃないか。」少年の大きな黒い眼には、もう涙の跡も無く、涼しげに笑っている。「亡国の言辞ですよ。君は、人がいいから、だめだなあ。そいつの言ってる秩序ってのは、古い昔の秩序の事なんだ。古典擁護に違いない。フランスの伝統を誇っているだけなんですよ。うっかり、だまされるところだった。」
「いや、いや、」私は狼狽して、あぐらを組み直した。「そういう事は無い。」
「秩序って言葉は、素晴しいからなあ。」少年は、私の拒否を無視して、どんぶりを片手に持ったまま、ひとりで詠嘆の言葉を発し、うっとりした眼つきをして見せた。「僕は、フランス人の秩序なんて信じないけれど、強い軍隊の秩序だけは信じているんだ。僕には、ぎりぎりに苛酷の秩序が欲しいのだ。うんと自分を、しばってもらいたいのだ。僕たちは、みんな、戦争に行きたくてならないのだよ。生ぬるい自由なんて、飼い殺しと同じだ。何も出来やしないじゃないか。卑屈《ひくつ》になるばかりだ。銃後はややこしくて、むずかしいねえ。」
「何を言ってやがる。君は、一ばん骨の折れるところから、のがれようとしているだけなんだ。千の主張よりも、一つの忍耐。
前へ 次へ
全8ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング