だ。小説家、というもんだ。」言ってしまってから、ひどく尾籠《びろう》なことを言ったような気がした。
「そうかね。」相手は一向に感動せず、「小説家って、頭がわるいんだね。君は、ガロアを知ってるかい? エヴァリスト・ガロア。」
「聞いた事があるような、気がする。」
「ちえっ、外国人の名前だと、みんな一緒くたに、聞いたような気がするんだろう? なんにも知らない証拠だ。ガロアは、数学者だよ。君には、わかるまいが、なかなか頭がよかったんだ。二十歳で殺されちゃった。君も、も少し本を読んだら、どうかね。なんにも知らないじゃないか。可哀そうなアベルの話を知ってるかい? ニイルス・ヘンリク・アベルさ。」
「そいつも、数学者かい?」
「ふん、知っていやがる。ガウスよりも、頭がよかったんだよ。二十六で死んじゃったのさ。」
私は、自分でも醜いと思われるほど急に悲しく気弱くなり、少年から、よほど離れた草原に腰をおろし、やがて長々と寝そべってしまった。眼をつぶると、ひばりの声が聞える。
[#ここから2字下げ]
若き頃、世にも興ある驕児《きょうじ》たり
いまごろは、人喜ばす片言|隻句《せっく》だも言えず
さながら、老猿
愛らしさ一つも無し
人の気に逆らうまじと黙し居れば
老いぼれの敗北者よと指さされ
もの言えば
黙れ、これ、恥を知れよと袖《そで》をひかれる。(ヴィヨン)
[#ここで字下げ終わり]
「自信がないんだよ、僕は。」眼をあいて、私は少年に呼びかけた。
「へん。自信がないなんて、言える柄かよ。」少年も寝ころんでいて、大声で、侮蔑の言葉を返却して寄こした。「せめて、ガロアくらいでなくちゃ、そんないい言葉が言えないんだよ。」
何を言っても、だめである。私にも、この少年の一時期が、あったような気がする。けさの知識は、けさ情熱を打ち込んで実行しなければ死ぬるほど苦しいのである。おそらくは、この少年も昨夜か、けさ、若くして死んだ大数学者の伝記を走り読みしたのに違いない。そのガロアなる少年天才も、あるいは、素裸で激流を泳ぎまくった事実があるのかも知れない。
「ガロアが、四月に、まっぱだかで川を泳いだ、とその本に書いていたかね。」私はお小手《こて》をとるつもりで、そう言ってやった。
「何を言ってやがる。頭が悪いなあ。そんなことで、おさえた気でいやがる。それだから、大人《おとな》はいやなんだ。僕は君に、親切で教えてやっているんじゃないか。先輩としての利己主義を、暗黙のうちに正義に化す。」
私は、いやな気がした。こんどは、本心から、この少年に敵意を感じた。
第二回
決意したのである。この少年の傲慢《ごうまん》無礼を、打擲《ちょうちゃく》してしまおうと決意した。そうと決意すれば、私もかなりに兇悪酷冷の男になり得るつもりであった。私は馬鹿に似ているが、けれども、根からの低能でも無かった筈である。自信が無いとは言っても、それはまた別な尺度から言っている事で、何もこんな一面識も無い年少の者から、これ程までにみそくそに言われる覚えは無いのである。
私は立って着物の裾の塵《ちり》をぱっぱっと払い、それから、ぐいと顎をしゃくって、
「おい、君。タンタリゼーションってのは、どうせ、たかの知れてるものだ。かえって今じゃ、通俗だ。本当に頭のいい奴は、君みたいな気取った言いかたは、しないものだ。君こそ、ずいぶん頭が悪い。様子《ようす》ぶってるだけじゃ無いか。先輩が一体どうしたというのだ。誰も君を、後輩だなんて思ってやしない。君が、ひとりで勝手に卑屈になっているだけじゃないか。」
少年は草原に寝ころび眼をつぶったまま、薄笑いして聞いていたが、やがて眼を細くあけて私の顔を横眼で見て、
「君は、誰に言っているんだい。僕にそんなこと言ったって、わかりやしない。弱るね。」
「そうか。失敬した。」思わず軽く頭をさげて、それから、しまった! と気附いた。かりそめにも目前の論敵に頭をさげるとは、容易ならぬ失態である。喧嘩《けんか》に礼儀は、禁物である。どうも私には、大人《たいじん》の風格がありすぎて困るのである。ちっとも余裕なんて無いくせに、ともすると余裕を見せたがって困るのである。勝敗の結果よりも、余裕の有無のほうを、とかく問題にしたがる傾向がある。それだから、必ず試合には負けるのである。ほめた事ではない。私は気を取り直し、
「とにかく立たないか。君に、言いたい事があるんだ。」
胸に、或る計画が浮かんだ。
「怒ったのかね。仕様がねえなあ。弱い者いじめを始めるんじゃないだろうね。」
言う事がいちいち不愉快である。
「僕のほうが、弱い者かも知れない。どっちが、どうだか判ったものじゃない。とにかく起きて上衣《うわぎ》を着たまえ。」
「へん、本当に怒っていやがる。どっこいしょ。」と小声で言って少年は起き上り、「上衣なんて、ありやしない。」
「嘘をつけ。貧を衒《てら》う。安価なヒロイズムだ。さっさと靴《くつ》をはいて、僕と一緒に来たまえ。」
「靴なんて、ありやしない。売っちゃったんだよ。」立ちつくし、私の顔を見上げて笑っている。
私は、異様な恐怖に襲われた。この目前の少年を、まるっきりの狂人ではないかと疑ったのである。
「君は、まさか、」と言いかけて、どもってしまった。あまりにも失礼な、恐しい質問なので、言いかけた当の私が、べそをかいた。
「きのう迄は、あったんだよ。要《い》らなくなったから、売っちゃった。シャツなら、あるさ。」と無邪気な口調で言って、足もとの草原から、かなり上等らしい駱駝《らくだ》色のアンダアシャツを拾い上げ、「はだかで、ここまで来られるものか。僕の下宿は本郷だよ。ばかだね、君は。」
「はだしで来たわけじゃ、ないだろうね。」私は尚《なお》も、しつこく狐疑《こぎ》した。甚だ不安なのである。
「ああ、陸の上は不便だ。」少年はアンダアシャツを頭からかぶって着おわり、「バイロンは、水泳している間だけは、自分の跛《びっこ》を意識しなくてよかったんだ。だから水の中に居ることを好んだのさ。本当に、本当に、水の中では靴も要らない。上衣も要らない。貴賤貧富の別が無いんだ。」と声に気取った抑揚《よくよう》をつけて言った。
「君はバイロンかい。」私は努めて興醒《きょうざ》めの言葉を選んで言った。少年の相変らずの思わせぶりが、次第に鼻持ちならなく感ぜられて来たのである。「君は跛でもないじゃないか。それに、人間は、水の中にばかり居られるものじゃない。」自分で言いながら、ぞっとした程狂暴な、味気ない言葉であった。毒を以て毒を制するのだ。かまう事は無い、と胸の奥でこっそり自己弁解した。
「嫉妬さ。妬《や》けているんだよ、君は。」少年は下唇をちろと舐《な》めて口早に応じた。「老いぼれのぼんくらは、若い才能に遭うと、いたたまらなくなるものさ。否定し尽すまでは、堪忍できないんだ。ヒステリイを起しちゃうんだから仕様が無い。話があるんなら、話を聞くよ。だらしが無いねえ、君は。僕を、どこかへ引っぱって行こうというのか?」
見ると、彼は、いつのまにやら、ちゃんと下駄をはいている。買って間も無いものらしく、一見したところは私の下駄より、はるかに立派である。私は、なぜだか、ほっとした。救われた気持であった。浅間《あさま》しい神経ではあるが、私も、やはり、あまりに突飛な服装の人間には、どうしても多少の警戒心を抱いてしまうのである。服装なんか、どうでもいいものだとは、昔から一流詩人の常識になっていて、私自身も、服装に就いては何の趣味も無し、家の者の着せる物を黙って着ていて、人の服装にも、まるで無関心なのであるが、けれども、やはり、それにも程度があって、ズボン一つで、上衣も無し、靴も無しという服装には流石《さすが》に恐怖せざるを得なかったのである。所詮《しょせん》は、私の浅間しい俗人根性なのであろう。いまこの少年が、かなり上等のシャツを着込み、私のものより立派な下駄をはいて、しゃんと立っているのを見て、私は非常に安心したのである。まずまず普通の服装である。狂人では、あるまい。さっき胸に浮かんだ計画を、実行しても差支え無い。相手は尋常の男である。膝《ひざ》を交えて一論戦しても、私の不名誉にはなるまい。
「ゆっくり話をして、みたいんだがね。」私は技巧的な微笑を頬に浮かべて、「君は、さっきから僕を無学だの低能だのと称しているが、僕だって多少は、名の有る男だ。事実、無学であり低能ではあるが、けれども、君よりは、ましだと思っている。君には、僕を侮辱する資格は無いのだ。君の不当の暴言に対して、僕も返礼しなければならぬ。」なかなか荘重な出来である。それにも拘らず、少年は噴き出した。
「なあんだ、僕と遊びたがっていやがる。君も、よっぽどひまなんだね。何か、おごれよ。おなかが、すいた。」
私も危く大笑いするところであったが、懸命に努めて渋面を作り、
「ごまかしては、いかん。君は今、或る種の恐怖を感じていなければならぬところだ。とにかく、僕と一緒に来給え。」ともすると笑い出しそうになって困るので、私は多少|狼狽《ろうばい》して後をも振り向かず急いで歩き出した。
私の計画とは、計画という言葉さえ大袈裟《おおげさ》な程の、ほんのささやかな思いつきに過ぎないのである。井の頭公園の池のほとりに、老夫婦二人きりで営んでいる小さい茶店が一軒ある。私は、私の三鷹の家に、ほんのたまに訪れて来る友人たちを、その茶店に案内する事にしているのである。私は、どういうわけだか、家に在る時には頗《すこぶ》る口が重い。ただ、まごまごしている。たまに私の家に訪れて来る友人は、すべて才あり学あり、巧《たく》まずして華麗高潔の芸論を展開するのであるが、私は、れいの「天候居士」ゆえ、いたずらに、あの、あの、とばかり申して膝をゆすり、稀《まれ》には、へえ、などの平伏の返事まで飛び出す始末で、われながら、みっともない。かくては、襖《ふすま》の蔭で縫いものをしている家の者に迄あなどられる結果になるやも知れぬという、けち臭い打算から、私は友人を屋外に誘い出し、とにもかくにも散策を試み、それでもやはり私の旗色《はたいろ》は呆れる程に悪く、やりきれず、遂には、その井の頭公園の池のほとりの茶店に案内するという段取りになるのであった。この茶店の床几《しょうぎ》の上に、あぐらをかけば、私は不思議に蘇生《そせい》するのである。その床几の上に、あぐらをかいて池の面を、ぼんやり眺め、一杯のおしるこ、或《あるい》は甘酒をすするならば、私の舌端は、おもむろにほどけて、さて、おのれの思念開陳は、自由濶達、ふだん思ってもいない事まで、まことしやかに述べ来り、説き去り、とどまるところを知らぬ状態に立ち到ってしまうのである。この不思議の原因は、私も友人も、共に池の面を眺めながら話を交すというところに在るらしい。すなわち、談話の相手と顔を合わせずに、視線を平行に池の面に放射しているところに在るらしいのである。諸君も一度こころみるがよい。両者共に、相手の顔を意識せず、ソファに並んで坐って一つの煖炉の火を見つめながら、その火焔に向って交互に話し掛けるような形式を執《と》るならば、諸君は、低能のマダムと三時間話し合っても、疲れる事は無いであろう。一度でも、顔を見合わせてはいけない。私は、そこの茶店では、頑強に池の面ばかりを眺めて、辛うじて私の弁舌の糸口を摘出することに成功するのである。その茶店の床几は、謂《い》わば私のホオムコオトである。このコオトに敵を迎えて戦うならば、私は、ディドロ、サント・ブウヴほどの毒舌の大家にも、それほど醜い惨敗はしないだろうとも思われるけれど、私には学問が無いから、やっぱり負けるかも知れない。私には、あの人たちほどフランス語が話せない。そこに、その茶店の床几に、私は、この少年を連れていって、さっきの悪罵の返礼をしようと、たくらんでいたのである。私を、あまりにも愚弄《ぐろう》した。少し、たしなめてやらなければならぬ。
若い才能と自称する浅墓《あさはか》な少年
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