が苦しいのです。」
「何を言ってやがる。相変らず鼻持ちならねえ。」と佐伯が小声で呟いたのを、障子のかなたから聞き取った様子で、
「その鼻のことです。私は鼻を虫に刺されました。こんな見苦しい有様で、初対面のおかたと逢うのは、何より、つらい事です。人間は、第一印象が大事ですから。」
 私たちは、爆笑した。
「ばかばかしい。」佐伯は、障子をがらりと開けて転げ込むようにして部屋へはいった。私も、おなかを抑えて笑い咽《むせ》びよろよろ部屋へ、はいってしまった。
 薄暗い八畳間の片隅に、紺絣《こんがすり》を着た丸坊主の少年がひとりきちんと膝を折って坐っていた。顔を見ると、やはり、青本女之助に違いなかった。熊本という逞しい名前の感じは全然、無かったのである。白くまんまるい顔で、ロイド眼鏡の奥の眼は小さくしょぼしょぼして、問題の鼻は、そういえば少し薄赤いようであったが、けれども格別、悲惨な事もなかった。からだは、ひどく、でっぷり太っている。背丈は、佐伯よりも、さらに少し低いくらいである。おしゃれの様子で、襟元《えりもと》をやたらに気にして直しながら、
「佐伯君、少し乱暴じゃありませんか。」と真面目な口調で言って、「僕は、親にさえ、こういう醜い顔を見せた事はないのですからね。」つんとして見せた。
 佐伯は、すぐに笑いを鎮《しず》めて、熊本君のほうに歩み寄り、
「読書かね?」と、からかうような口調で言い熊本君の傍にある机の、下を手さぐりして、一冊の文庫本を拾い上げた。机の上には、大形の何やら横文字の洋書が、ひろげられていたのであるが、佐伯はそれには一瞥《いちべつ》もくれなかった。「里見八犬伝か。面白そうだね。」と呟き、つっ立ったまま、その小さい文庫本のペエジをぱらぱら繰ってみて、「君は、いつでも読まない本を机の上にひろげて置いて、読んでる本は必ず机の下に隠して置くんだね。妙な癖があるんだね。」笑いもせずに、そう言い放って、その文庫本を熊本君の膝の上にぽんと投げてやった。
 熊本君は、気の毒なほど露《あら》わに狼狽し、顔を真赤にして膝の上のその本を両手で抑え、
「軽蔑し給うな。」と、ほとんど聞えぬくらいの低い声で言い、いかにも怨《うら》めしそうに佐伯の顔を横目で見上げた。
 私は部屋の隅にあぐらをかいて坐って、二人の様を笑いながら眺めていたが、なんだかひどく熊本君が可哀想になって来て、

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