らば、
それをそのまま言えばよい。(ファウスト)
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「はい。」という女のように優しい素直な返事が二階の障子の奥から聞えて来たので、私は奇妙に拍子抜けがした。いやしくも熊本君ともあろうものが、こんな優しい返事をするとは思わなかった。青本女之助とでも改名すべきだと思った。
「佐伯だあ。あがってもいいかあ。」少年佐伯のほうが、よっぽど熊本らしい粗暴な大声で、叫ぶのである。
「どうぞ。」
実に優しかった。
私は呆れて噴き出した。佐伯も、私の気持を敏感に察知したらしく、
「ディリッタンティなんだ。」と低い声で言って狡猾《こうかつ》そうに片眼をつぶってみせた。「ブルジョアさ。」
私たちは躊躇せず下宿の門をくぐり、玄関から、どかどか二階へ駈けあがった。
佐伯が部屋の障子をあけようとすると、
「待って下さい。」と懸命の震え声が聞えた。やはり、女のように甲高《かんだか》い細い声であったが、せっぱつまったものの如く、多少は凜《りん》としていた。「おひとり? お二人?」
「お二人だ。」うっかり私が答えてしまった。
「どなた? 佐伯君、一緒の人は、誰ですか?」
「知らない。」佐伯は、当惑の様子であった。
私は、まだ佐伯に私の名前を教えていなかったのである。
「木村武雄、木村武雄。」と私は、小声で佐伯に教えた。太宰《だざい》というのは、謂《い》わばペンネエムであって、私の生まれた時からの名は、その木村武雄なのである。なんとも、この名前が恥ずかしく、私は痩せている癖に太宰なぞという喧嘩《けんか》の強そうな名前を選んで用いているわけであるが、それでも、こんなに気持のせいている時には、思わずふっと、親から貰った名前のほうを言い出してしまうのである。「僕を木村武雄と呼んでくれ給え。」と言い足してみたが、私は、やはりなんだか恥ずかしかった。
「木村たけお。」佐伯は、うなずいて、「木村武雄くんと一緒に来たんだがね。」
「木村たけお? 木村、武雄くんですか?」障子の中でも、不審そうに呟《つぶや》いている。私は、たまらなくなって来た。木村武雄という名は、世界で一ばん愚劣なもののように思われた。
「木村武雄という者ですが。」私は、やぶれかぶれに早口で言って、「お願いがあって、やって来たんですけど。」
「おゆるし下さい。」意外の返事であった。「初対面のおかたとは、お逢いするの
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