ゆで卵を半分に切つた斷面には、青い寒天の「壽」といふ文字がハイカラにくづされて畫かれてゐた。試みに、食堂のなかを覗くと、奉仕の品品の饗應にあづかつてゐる大學生たちの黒い密林のなかを白いエプロンかけた給仕の少女たちが、くぐりぬけすりぬけしてひらひら舞ひ飛んでゐるのである。ああ、天井には萬國旗。
 大學の地下に匂ふ青い花、こそばゆい毒消しだ。よき日に來合せたるもの哉。ともに祝はむ。ともに祝はむ。
 盜賊は落葉の如くはらはらと退却し、地上に舞ひあがり、長蛇のしつぽにからだをいれ、みるみるすがたをかき消した。

       決鬪

 それは外國の眞似ではなかつた。誇張でなしに、相手を殺したいと願望したからである。けれどもその動機は深遠でなかつた。私とそつくりおなじ男がゐて、この世にひとつものがふたつ要らぬといふ心から憎しみ合つたわけでもなければ、その男が私の妻の以前のいろであつて、いつもいつもその二度三度の事實をこまかく自然主義ふうに隣人どもへ言ひふらして歩いてゐるといふわけでもなかつた。相手は、私とその夜はじめてカフヱで落ち合つたばかりの、犬の毛皮の胴着をつけた若い百姓であつた。私はその男の酒を盜んだのである。それが動機であつた。
 私は北方の城下まちの高等學校の生徒である。遊ぶことが好きなのである。けれども金錢には割にけちであつた。ふだん友人の煙草ばかりをふかし、散髮をせず、辛抱して五圓の金がたまれば、ひとりでこつそりまちへ出てそれを一錢のこさず使つた。一夜に、五圓以上の金も使へなかつたし、五圓以下の金も使へなかつた。しかも私はその五圓でもつて、つねに最大の效果を收めてゐたやうである。私の貯めた粒粒の小金を、まづ友人の五圓紙幤と交換するのである。手の切れるほどあたらしい紙幤であれば、私の心はいつそう跳つた。私はそれを無雜作らしくポケツトにねぢこみ、まちへ出掛けるのだ。月に一度か二度のこの外出のために、私は生きてゐたのである。當時、私は、わけの判らぬ憂愁にいぢめられてゐた。絶對の孤獨と一切の懷疑。口に出して言つては汚い! ニイチエやビロンや春夫よりも、モオパスサンやメリメや鴎外のはうがほんものらしく思へた。私は、五圓の遊びに命を打ち込む。
 私がカフヱにはひつても、決して意氣込んだ樣子を見せなかつた。遊び疲れたふうをした。夏ならば、冷いビールを、と言つた。冬ならば、熱い酒を、と言つた。私が酒を呑むのも、單に季節のせゐだと思はせたかつた。いやいやさうに酒を噛みくだしつつ、私は美人の女給には眼もくれなかつた。どこのカフヱにも、色氣に乏しい慾氣ばかりの中年の女給がひとりばかりゐるものであるが、私はそのやうな女給にだけ言葉をかけてやつた。おもにその日の天候や物價について話し合つた。私は、神も氣づかぬ素早さで、呑みほした酒瓶の數を勘定するのが上手であつた。テエブルに並べられたビイル瓶が六本になれば、日本酒の徳利が十本になれば、私は思ひ出したやうにふらつと立ちあがり、お會計、とひくく呟くのである。五圓を越えることはなかつた。私は、わざとはうばうのポケツトに手をつつこんでみるのだ。金の仕舞ひどころを忘れたつもりなのである。いよいよおしまひにかのズボンのポケツトに氣がつくのであつた。私はポケツトの中の右手をしばらくもぢもぢさせる。五六枚の紙幤をえらんでゐるかたちである。やうやく、私はいちまいの紙幤をポケツトから拔きとり、それを十圓紙幤であるか五圓紙幤であるか確かめてから、女給に手渡すのである。釣錢は、少いけれど、と言つて見むきもせず全部くれてやつた。肩をすぼめ、大股をつかつてカフヱを出てしまつて、學校の寮につくまで私はいちども振りかへらぬのである。翌る日から、また粒粒の小錢を貯めにとりかかるのであつた。
 決鬪の夜、私は「ひまはり」といふカフヱにはひつた。私は紺色の長いマントをひつかけ、純白の革手袋をはめてゐた。私はひとつカフヱにつづけて二度は行かなかつた。きまつて五圓紙幤を出すといふことに不審を持たれるのを怖れたのである。「ひまはり」への訪問は、私にとつて二月ぶりであつた。
 そのころ私のすがたにどこやら似たところのある異國の一青年が、活動役者として出世しかけてゐたので、私も少しづつ女の眼をひきはじめた。私がそのカフヱの隅の椅子に坐ると、そこの女給四人すべてが、樣樣の着物を着て私のテエブルのまへに立ち並んだ。冬であつた。私は、熱い酒を、と言つた。さうしてさもさも寒さうに首筋をすくめた。活動役者との相似が、直接私に利益をもたらした。年若いひとりの女給が、私が默つてゐても、煙草をいつぽんめぐんでくれたのである。
「ひまはり」は小さくてしかも汚い。束髮を結つた一尺に二尺くらゐの顏の女のぐつたりと頬杖をつき、くるみの實ほどの大きな齒をむきだして微笑んで
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