は微笑みつつ、わざとゆつくりその帽子を拾ひに歩きはじめた。毎日毎日のみぞれのために、道はとろとろ溶けてゐた。しやがんで、泥にまみれた帽子を拾つたとたんに、私は逃げやうと考へた。五圓たすかる。別のところで、もいちど呑むのだ。私は二あし三あし走つた。滑つた。仰向にひつくりかへつた。踏みつぶされた雨蛙の姿に似てゐたやうであつた。自身のぶざまが、私を少し立腹させたのである。手袋も上衣もズボンもそれからマントも、泥まみれになつてゐる。私はのろのろと起きあがり、頭をあげて百姓のもとへ引返した。百姓は、女給たちに取りまかれ、まもられてゐた。誰ひとり味方がない。その確信が私の兇暴さを呼びさましたのである。
――お禮をしたいのだ。
せせら笑つてさう言つてから、私は手袋を脱ぎ捨て、もつと高價なマントをさへ泥のなかへかなぐり捨てた。私は自身の大時代なせりふとみぶりにやや滿足してゐた。誰かとめて呉れ。
百姓は、もそもそと犬の毛皮の胴着を脱ぎ、それを私に煙草をめぐんで呉れた美人の女給に手渡して、それから懷のなかへ片手をいれた。
――汚い眞似をするな。
私は身構へて、さう注意してやつた。
懷から一本の銀笛が出た。銀笛は軒燈の燈にきらきら反射した。銀笛はふたりの亭主を失つた中年の女給に手渡された。
百姓のこのよさが、私を夢中にさせたのだ。それは小説のうへでなく、眞實、私はこの百姓を殺さうと思つた。
――出ろ。
さう叫んで、私は百姓の向ふ臑を泥靴で力いつぱいに蹴あげた。蹴たふして、それから澄んだ三白眼をくり拔く。泥靴はむなしく空を蹴つたのである。私は自身の不恰好に氣づいた。悲しく思つた。ほのあたたかいこぶしが、私の左の眼から大きい鼻にかけて命中した。眼からまつかな焔が噴き出た。私はそれを見た。私はよろめいたふりをした。右の耳朶から頬にかけてぴしやつと平手が命中した。私は泥のなかに兩手をついた。とつさのうちに百姓の片脚をがぶと噛んだ。脚は固かつた。路傍の白楊の杙であつた。私は泥にうつぶして、いまこそおいおい聲をたてて泣かう泣かうとあせつたけれど、あはれ、一滴の涙も出なかつた。
くろんぼ
くろんぼは檻の中にはひつてゐた。檻の中は一坪ほどのひろさであつて、まつくらい奧隅に、丸太でつくられた腰掛がひとつ置かれてゐた。くろんぼはそこに坐つて、刺繍をしてゐた。このやうな暗闇のなかでどんな刺繍ができるものかと、少年は拔けめのない紳士のやうに、鼻の兩わきへ深い皺をきざみこませ口まげてせせら笑つたものである。
日本チヤリネがくろんぼを一匹つれて來た。村は、どよめいた。ひとを食ふさうである。まつかな角が生えてゐる。全身に花のかたちのむらがある。少年は、まつたくそれを信じないのであつた。少年は思ふのだ。村のひとたちも心から信じてそんな噂をしてゐるのではあるまい。ふだんから夢のない生活をしてゐるゆゑ、こんなときにこそ勝手な傳説を作りあげ、信じたふりして醉つてゐるのにちがひない。少年は村のひとたちのそんな安易な嘘を聞くたびごとに、齒ぎしりをし耳を覆ひ、飛んで彼の家へ歸るのであつた。少年は村のひとたちの噂話を間拔けてゐると思ふのだ。なぜこのひとたちは、もつとだいじなことがらを話し合はないのであらう。くろんぼは、雌ださうではないか。
チヤリネの音樂隊は、村のせまい道をねりあるき、六十秒とたたぬうちに村の隅から隅にまで宣傳しつくすことができた。一本道の兩側に三丁ほど茅葺の家が立ちならんでゐるだけであつたのである。音樂隊は、村のはづれに出てしまつてもあゆみをとめないで、螢の光の曲をくりかへしくりかへし奏しながら菜の花畠のあひだをねつてあるいて、それから田植まつさいちゆうの田圃へ出て、せまい畦道を一列にならんで進み、村のひとたちをひとりも見のがすことなく浮かれさせ橋を渡つて森を通り拔けて、半里はなれた隣村にまで行きつゐてしまつた。
村の東端に小學校があり、その小學校のさらに東隣りが牧場であつた。牧場は百坪ほどのひろさであつてオランダげんげが敷きつめられ、二匹の牛と半ダアスの豚とが遊んでゐた。チヤリネはこの牧場に鼠色したテントの小屋をかけた。牛と豚とは、飼主の納屋に移轉したのである。
夜、村のひとたちは頬被りして二人三人づつかたまつてテントのなかにはひつていつた。六、七十人のお客であつた。少年は大人たちを毆りつけては押しのけ押しのけ、最前列へ出た。まるい舞臺のぐるりに張りめぐらされた太いロオプに顎をのせかけて、じつとしてゐた。ときどき眼を輕くつぶつて、うつとりしたふりをしてゐた。
かるわざの曲目は進行した。樽。メリヤス。むちの音。それから金襴。痩せた老馬。まのびた喝采。カアバイト。二十箇ほどのガス燈が小屋のあちこちにでたらめの間隔をおいて吊され、夜
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