ある。さがしてもさがしても見つからぬのである。學校は、しんとなつた。授業がはじまつたのであらう。第二課、アレキサンドル大王と醫師フイリツプ。むかしヨーロツパにアレキサンドル大王といふ英雄があつた。少女の朗朗と讀みあげる聲をはつきり聞いた。少年は、うごかなかつた。少年は信じてゐた。あのくろんぼは、ただの女だ。ふだんは檻から出て、みんなと遊んでゐるのにちがひない。水仕事をしたり、煙草をふかしたり、日本語で怒つたり、そんな女だ。少女の朗讀がをはり、教師のだみ聲が聞えはじめた。信頼は美徳であると思ふ。アレキサンドル大王はこの美徳をもつてゐたがために、一命をまつたうしたやうであります。みなさん。少年は、まだうごかずにゐた。ここにゐないわけはない。檻は、きつとからつぽの筈だ。少年は肩を固くした。かうして覗いてゐるうちに、くろんぼは、こつそりおれのうしろにやつて來て、ぎゆつと肩を抱きしめる。それゆゑ背後にも油斷をせず、抱きしめられるに恰好のいいやうに肩を小さく固くしたのであつた。くろんぼは、きつと刺繍した日の丸の旗をくれるにちがひない。そのときおれは、弱味を見せずかう言つてやる。僕で幾人目だ。
くろんぼは現れなかつた。テントから離れ、少年は着物の袖でせまい額の汗を拭つて、のろのろと學校へ引き返した。熱が出たのです。肺がわるいさうです。袴に編みあげの靴をはいてゐる男の老教師を、まんまとだました。自分の席についてからも、少年はごほごほと贋の咳ばらひにむせかへつた。
村のひとたちの話に依れば、くろんぼは、やはり檻につめられたまま、幌馬車に積みこまれ、この村を去つたのである。太夫は、おのが身をまもるため、ピストルをポケツトに忍ばせてゐた。
底本:「太宰治全集2」筑摩書房
1998(平成10)年5月25日初版第1刷発行
初出:蝶蝶「文藝 第三巻第二号」
1935(昭和10)年2月1日発行
決鬪「文藝 第三巻第二号」
1935(昭和10)年2月1日発行
くろんぼ「文藝 第三巻第二号」
1935(昭和10)年2月1日発行
盜賊「帝國大學新聞」
1935(昭和10)年10月7日
入力:赤木孝之
校正:湯地光弘
1999年6月29日公開
2009年3月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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