私はなぜ何々主義者になったか」などという思想発展の回想録或いは宣言書を読んでも、私には空々《そらぞら》しくてかなわない。彼等がその何々主義者になったのには、何やら必ず一つの転機というものがある。そうしてその転機は、たいていドラマチックである。感激的である。
 私にはそれが嘘《うそ》のような気がしてならないのである。信じたいとあがいても、私の感覚が承知しないのである。実際、あのドラマチックな転機には閉口《へいこう》するのである。鳥肌立つ思いなのである。
 下手《へた》なこじつけに過ぎないような気がするのである。それで私は、自分の思想の歴史をこれから書くに当って、そんな見えすいたこじつけだけはよそうと思っている。
 私は「思想」という言葉にさえ反撥を感じる。まして「思想の発展」などという事になると、さらにいらいらする。猿芝居《さるしばい》みたいな気がして来るのである。
 いっそこう言ってやりたい。
「私には思想なんてものはありませんよ。すき、きらいだけですよ。」
 私は左に、私の忘れ得ぬ事実だけを、断片的に記そうと思う。断片と断片の間をつなごうとして、あの思想家たちは、嘘の白々しい説明に憂
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