のである)朝、眼がさめてから、夜、眠るまで、私の傍に本の無かった事は無いと言っても、少しも誇張でないような気がする。手当り次第、実によく読んだ。そうして私は、二度繰り返して読むという事はめったに無かった。一日に四冊も五冊も、次々と読みっ放しである。日本のお伽噺《とぎばなし》よりも、外国の童話が好きであった。「三つの予言」というのであったか、「四つの予言」というのであったかいまは忘れたが、お前は何歳で獅子《しし》に救われ、何歳で強敵に逢《あ》い、何歳で乞食《こじき》になり、などという予言を受けて、ちっともそれを信じなかったけれども、果してその予言のとおりになって行く男の生涯を描写した童話は、たいへん気にいって二、三度読みかえしたのを記憶している。それからもう一つ、私の幼時の読書のうちで、最も奇妙に心にしみた物語は、金の船というのであったか、赤い星というのであったか、とにかくそんな名前の童話雑誌に出ていた、何の面白味も無いお話で、或る少女が病気で入院していて深夜、やたらに喉《のど》がかわいて、枕《まくら》もとのコップに少し残っていた砂糖水を飲もうとしたら、同室のおじいさんの患者が、みず、みず、と呻《うめ》いている。少女は、ベッドから降りて、自分の砂糖水を、そのおじいさんに全部飲ませてやる、というだけのものであったが、私はその挿画さえ、いまでもぼんやり覚えている。実にそれは心にしみた。そうして、その物語の題の傍に、こう書かれていた。汝等おのれを愛するが如く、汝の隣人を愛せ。
しかし私は、このような回想を以て私の思想にこじつけようとは思わぬ。私のこんな思い出話を以て、私の家の宗派の親鸞の教えにこじつけ、そうしてまた後の、れいのデモクラシイにこじつけようとしたら、それはまるで何某先生の「余は如何《いか》にして何々主義者になりしか」と同様の白々しいものになってしまうであろう。この私の読書の回想は、あくまでも断片である。どこにこじつけようとしても、無理がある。嘘が出る。
×
さて、それでは、いよいよ、私のれいのデモクラシイは、それからどうなったか。どうもこうもなりやしない。あれは、あのまま立消えになったようである。まえにも言って置いたように、私はいまここで当時の社会状勢を報告しようとしているのではない。私の肉体感覚の断片を書きならべて見ようと思っているだけである。
×
博愛主義。雪の四つ辻に、ひとりは提燈《ちょうちん》を持ってうずくまり、ひとりは胸を張って、おお神様、を連発する。提燈持ちは、アアメンと呻く。私は噴き出した。
救世軍。あの音楽隊のやかましさ。慈善鍋《じぜんなべ》。なぜ、鍋でなければいけないのだろう。鍋にきたない紙幣や銅貨をいれて、不潔じゃないか。あの女たちの図々《ずうずう》しさ。服装がどうにかならぬものだろうか。趣味が悪いよ。
人道主義。ルパシカというものが流行して、カチュウシャ可愛いや、という歌がはやって、ひどく、きざになってしまった。
私はこれらの風潮を、ただ見送った。
×
プロレタリヤ独裁。
それには、たしかに、新しい感覚があった。協調ではないのである。独裁である。相手を例外なくたたきつけるのである。金持は皆わるい。貴族は皆わるい。金の無い一|賤民《せんみん》だけが正しい。私は武装|蜂起《ほうき》に賛成した。ギロチンの無い革命は意味が無い。
しかし、私は賤民でなかった。ギロチンにかかる役のほうであった。私は十九歳の、高等学校の生徒であった。クラスでは私ひとり、目立って華美な服装をしていた。いよいよこれは死ぬより他は無いと思った。
私はカルモチンをたくさん嚥下《えんか》したが、死ななかった。
「死ぬには、及ばない。君は、同志だ。」と或る学友は、私を「見込みのある男」としてあちこちに引っぱり廻した。
私は金を出す役目になった。東京の大学へ来てからも、私は金を出し、そうして、同志の宿や食事の世話を引受けさせられた。
所謂《いわゆる》「大物」と言われていた人たちは、たいていまともな人間だった。しかし、小物には閉口であった。ほらばかり吹いて、そうして、やたらに人を攻撃して凄《すご》がっていた。
人をだまして、そうしてそれを「戦略」と称していた。
プロレタリヤ文学というものがあった。私はそれを読むと、鳥肌立って、眼がしらが熱くなった。無理な、ひどい文章に接すると、私はどういうわけか、鳥肌立って、そうして眼がしらが熱くなるのである。君には文才があるようだから、プロレタリヤ文学をやって、原稿料を取り党の資金にするようにしてみないか、と同志に言われて、匿名《とくめい》で書いてみた事もあったが、書きながら眼がしらが熱くなって来て、ものにならなかった。(この頃、
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング