屋から出て行つて呉れた。
だんだん茶店の人たちも、あのお客は、ただ口が重いだけで、別段に惡だくみのある者でないといふことが判つた樣子で、お客さんのお嫁さんになるひと仕合せですね、世話が燒けなくて、とをばさんに冗談言はれて、私は苦笑して、やつと打ち解けて來たころには、はや十一月、峠の寒氣、堪へがたくなつた。
(中) 御坂退却のこと
そろそろ私は、なまけはじめた。どうしても三百枚ぐらゐの長編にしたいのである。まだ半分もできてゐない。いまが、だいじのところである。一日ぼんやり机のまへに坐つて、煙草ばかりふかしてゐる。茶店のをばさんが、だいいちに心配しはじめた。お仕事できますか? と私が階下のストオヴにあたりに行くたんびに、さう尋ねる。できません。寒いから、かなはない、と私は、自分の怠惰を、時候のせゐにする。をばさんは、バスに乘つて、峠の下の吉田へ行つて、こたつをひとつ買つて來た。
そのとき一緒に、やさしい模樣のスリツパも買つて來た。廊下を歩くのに足の裏が冷たからうといふ思ひやりの樣であつた。私はそのスリツパをはいて、二階の廊下を懷手して、ぶらぶら歩き、ときどき富士を不機嫌さうに眺めて、やがて部屋へはひつて、こたつにもぐつて、何もしない。娘さんも呆れたらしく、私の部屋を拭き掃除しながら、お客さん、馴れたら惡くなつたわね、としんから不機嫌さうに呟いた。私は、振り向きもせず、さうかな、惡くなつたかな。娘さんは私の背後で床の間を拭きながら、ええ、惡くなつた。このごろは煙草も、日に七つづつ、お仕事は、ちつともすすまないし、ゆうべは、あたし二階へ樣子見に來たら、もうぐうぐう眠つてゐた。けふは、お仕事なさいね。お客さんの原稿の番號をそろへるのが、毎朝、ずゐぶんたのしみなのだから、たくさんすすんでゐると、うれしい。
私は、有りがたく思つた。この娘さんの感情には、みぢんも「異性」の意識がない。大げさな言ひかたをすれば、人間の生き拔く努力への聲援である。
けれども、いかな人情も、寒さにはかなはない。私は東北生れの癖に、寒さに弱く、ごほん、ごほん變な咳さへ出て來て、たうとう下山を決意した。東京へ歸つたら、また、ぶらぶら遊んでしまつて、仕事のできないのが判つてゐるから、とにかく、この小説の目鼻のつくまでは、と一先づ、峠の下の甲府のまちに降りて來た。工合がよかつたら甲
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