九月十月十一月
太宰治
(上) 御坂で苦慮のこと
甲州御坂峠の頂上に在る茶店の二階を借りて、長篇小説すこしづつ書きすすめて、九月、十月、十一月、三つきめに、やつと、茶店のをばさん、娘さん、と世間話こだはらず語り合へるくらゐに、馴れた。宿に著いて、すぐ女中さんたちに輕い冗談言へるやうな、器用な男ではないのである。それに私はこれまで滅茶な男のやうに言はれてゐるし、人と同じ樣に立小便しても、ああ、やつぱりあいつは無禮だ、とたちまち特別に指彈を受けるであらうから、旅に出ても、人一倍、自分の擧動に注意しなければ、いけない。
私は、おとなしく毎日、机に向つてゐた。をばさんも、娘さんも、はじめのうちは、私の音無しさに、かへつて奇怪を感じた樣子で、あのお客さんは女みたいだ、と蔭口きいて、私は、それをちらと聞いて、ああ、あんまり音無しくしてもいけないのか、とくやしく思つた。それから努めて、口をきくことにした。晩にお膳を持つて來る娘さんにも、何か一こと話しかけたく苦慮するのだが、どうも輕くふつと出ない。口をひらけば、何か人生問題を、演説口調で大聲叱咤しさうな氣がして、どうも何氣ない話は、できぬ。よつぽど氣負つた男である。たうとう或る晩、お膳を持つて部屋へはひつて來る娘さんを見るなり噴き出した。自身の苦慮が、毛むくじやらの大男の、やさしい聲を出さうとしての懸命の苦慮が、をかしかつたからである。娘さんは、顏を赤くした。
私は、氣の毒に思ひ、いいえ、あなたを笑つたのぢやないんだ。僕は、あんまりもそもそしてゐて、かへつてあなたたちに氣味わるがられてゐやしないかと、心配して、毎晩、あなたがお膳を持つて來て呉れるときだけでも、何か輕い世間話しようと努めて、いろいろ考へるのだが、どうも、考へれば考へるほど話すことがなくなつて、自分ながら呆れて、笑つてしまつたのです、と口ごもりながら辯解した。娘さんは、すると、落ちついて私の傍に坐つて、あたしも何かお話しようと思ふのですが、お客さんがあんまり默つてゐるので、つい、あたしも考へてしまつて、何も言へなくなります。考へると話すことなくなつてしまふものですね、と答へた。私は微笑した。それきり話が、また無くなつた。こまつたね、話がないんだ、と言つて笑ふと、娘さんは、私の窮屈がつてゐるのを察して、男は無口なはうがいい、と言ひ置いてさつさと部
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