もあるよ。」
「なに、豚の煮込み?」老紳士は莞爾《かんじ》と笑って、「待っていました。」と言う。けれども内心は閉口している。老紳士は歯をわるくしているので、豚の肉はてんで噛めないのである。
「次は豚の煮込みと来たか。わるくないなあ。おやじ、話せるぞ。」などと全く見え透いた愚かなお世辞を言いながら、負けじ劣らじと他のお客も、その一皿二円のあやしげな煮込みを注文する。けれども、この辺で懐中心細くなり、落伍《らくご》する者もある。
「ぼく、豚の煮込み、いらない。」と全く意気悄沈《いきしょうちん》して、六号活字ほどの小さい声で言って、立ち上り、「いくら?」という。
他のお客は、このあわれなる敗北者の退陣を目送し、ばかな優越感でぞくぞくして来るらしく、
「ああ、きょうは食った。おやじ、もっと何か、おいしいものは無いか。たのむ、もう一皿。」と血迷った事まで口走る。酒を飲みに来たのか、ものを食べに来たのか、わからなくなってしまうらしい。
なんとも酒は、魔物である。
底本:「太宰治全集5」ちくま文庫、筑摩書房
1989(昭和64)年1月31日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰
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