みんなが、おや、兄さん、と一緒に叫んで腰を浮かせた。立ちあがって、ちょっとかれに近づき、失礼いたします。久保田先生ではございませんか。私は、ことし帝大の文科を卒業いたします者で、少しは原稿も売れてまいりましたが、未だほとんど無名でございます。これから、よろしく、教えて下さい。直立不動の姿勢でもってそうお願いしてしまったので、商人、いいえ人違いですと鼻のさきで軽く掌を振る機会を失い、よし、ここは一番、そのくぼたとやらの先生に化けてやろうと、悪事の腹を据《す》えたようである。
――ははは。ま。掛けたまえ。
――はっ。
――のみながら。
――はっ。
――ひとつ。
――はっ。という工合いに、兵士の如く肩をいからせ、すすめられた椅子に腰をおろして、このようなところで先生にお逢いするとは実もって意外である。先生は毎晩ここにおいでになるのでしょうか。私は、先夜、先生の千人風呂という作品を拝誦《はいしょう》させていただきましたが、やはり興奮いたしまして、失礼ながらお手紙さしあげた筈《はず》でございますが。
――あれは君、はずかしいものだよ。
――しつれいいたしました。私の記憶ちがいでご
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