って銀座を歩いていた。老い疲れたる帝国大学生、袖口《そでぐち》ぼろぼろ、蚊の脛《すね》ほどに細長きズボン、鼠いろのスプリングを羽織って、不思議や、若き日のボオドレエルの肖像と瓜《うり》二つ。破帽をあみだにかぶり直して歌舞伎座、一幕見席の入口に吸いこまれた。
 舞台では菊五郎の権八が、したたるほどのみどり色の紋付を着て、赤い脚絆《きゃはん》、はたはたと手を打ち鳴らし、「雉《きじ》も泣かずば撃たれまいに」と呟《つぶや》いた。嗚咽《おえつ》が出て出て、つづけて見ている勇気がなかった。開演中お静かにお願い申します。千も二千も色様様の人が居るのに、歌舞伎座は、森閑《しんかん》としていた。そっと階段をおり、外へ出た。巷《ちまた》には灯がついていた。浅草に行きたく思った。浅草に、ひさごやというししの肉を食べさせる安食堂があった。きょうより四年まえに、ぼくが出世をしたならば、きっと、お嫁にもらってあげる、とその店の女中のうちで一ばんの新米《しんまい》、使いはしりをつとめていた眼のすずしい十五六歳の女の子に、そう言って元気をつけてやった。その食堂には、大工や土方人足などがお客であって、角帽かぶった大学生
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