しかに人の気配がした。私はちっともこわがらず、しばらくは、ただ煙草にふけり、それからゆっくりうしろを振りかえって見たのであるが、小さい鳥居が月光を浴びて象牙《ぞうげ》のように白く浮んでいるだけで、ほかには、小鳥の影ひとつなかった。ああ、わかった。いまのあのけはいは、おそらく、死神の逃げて行った足音にちがいない。死神さまにはお気の毒であったが、それにしても、煙草というものは、おいしいものだなあ。大家にならずともよし、傑作を書かずともよし、好きな煙草を寝しなに一本、仕事のあとに一服。そのような恥かしくも甘い甘い小市民の生活が、何をかくそう、私にもむりなくできそうな気がして来て、俗的なるものの純粋度、という緑青《ろくしょう》畑の妖雲論者《よううんろんしゃ》にとっては頗《すこぶ》るふさわしからぬ題目について思いめぐらし、眼は深田久弥のお宅の灯を、あれか、これか、とのんきに捜し需《もと》めていた。
 ああ、思いもかけず、このお仕合せの結末。私はすかさず、筆を擱《お》く。読者もまた、はればれと微笑んで、それでも一応は用心して、こっそり小声でつぶやくことには、
 ――なあんだ。



底本:「太宰治全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年8月30日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:しず
1999年7月22日公開
2005年10月20日修正
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