たけれども、私のからだが、その建築物に取りかえしのつかぬ大きい傷を与え、つつましい一家族の、おそらくは五、六人のひとを悲惨の境遇に蹴落すのだということに思いいたり、私は鎌倉駅まえの花やかな街道の入口まで来て、くるりと廻れ右して、たったいま、とおって来たばかりの小暗《おぐら》き路をのそのそ歩いた。駅の附近のバアのラジオは私を追いかけるようにして、いまは八時に五分まえである、台湾はいま夕立ち、日本ヨイトコの実況放送はこれでお仕舞いである、と教えた。おそくまでまごついて居れば、すぐにも不審を起されるくらいに、人どおりの無い路であった。善は急げ、というユウモラスな言葉が胸に浮んで、それから、だしぬけに二、三の肉親の身の上が思い出され、私は道のつづきのように路傍の雑木林へはいっていった。ゆるい勾配《こうばい》の、小高い岡になっていて、風は、いまだにおさまらず、さっさつと雑木の枝を鳴らして、少なからず寒く思った。夜の更《ふ》けるとともに、私の怪しまれる可能性もいよいよ多くなって来たわけである。人がこわくてこわくて、私は林のさらに奥深くへすすんでいった。いってもいっても、からだがきまらず、そのうちに、私のすぐ鼻のさき、一丈ほどの赤土の崖がのっそり立った。見あげると、その崖のうえには、やしろでもあるのか、私の背丈くらいの小さい鳥居が立っていて、常磐木《ときわぎ》が、こんもりと繁り、その奥ゆかしさが私をまねいて、私は、すすきや野いばらを掻《か》きわけ、崖のうえにゆける路を捜したけれども、なかなか、それらしきものは見当らず、ついには、崖の赤土に爪を立て立て這い登り、月の輪の無い熊、月の輪の無い熊、と二度くりかえして呟いた。やっとのことで崖の上までたどりつき、脚下の様を眺めたら、まばらに散在している鎌倉の街の家々の灯が、手に取るように見えたのだ。熊は、うろうろ場所を捜した。薬品に依って頭脳を麻痺《まひ》させているわけでもなし、また、お酒に勢いを借りているわけでもない。ズボンのポケットには二十円余のお金がある。私は一糸みだれぬ整うた意志でもって死ぬるのだ。見るがよい。私の知性は、死ぬる一秒まえまで曇らぬ。けれどもひそかに、かたちのことを気にしていたのだ。清潔な憂悶の影がほしかった。私の腕くらいの太さの枝にゆらり、一瞬、藤の花、やっぱりだめだと望を捨てた。憂悶どころか、阿呆《あほう》づら。しかも噂と事ちがって、あまりの痛苦に、私は、思わず、ああっ、と木霊《こだま》するほど叫んでしまった。楽じゃないなあ、そう呟いてみて、その己れの声が好きで好きで、それから、ふっとたまらなくなって涙を流した。死ぬる直前の心には様様の花の像が走馬燈のようにくるくるまわって、にぎやかなものの由であるが、けれども私は、さっぱりだめであった。私は釣り上げられたいもりの様にむなしく手足を泳がせた。かたちの間抜けにしんから閉口して居ると、私の中のちゃちな作家までが顔を出して、「人間のもっとも悲痛の表情は涙でもなければ白髪でもなし、まして、眉間《みけん》の皺《しわ》ではない。最も苦悩の大いなる場合、人は、だまって微笑《ほほえ》んでいるものである。」虫の息。三十分ごとに有るか無しかの一呼吸をしているように思われた。蚊《か》の泣き声。けれども痛苦はいよいよ劇《はげ》しく、頭脳はかえって冴えわたり、気の遠くなるような前兆はそよともなかった。こうして喉の軟骨のつぶれるときをそれこそ手をつかねて待っていなければいけないのだ。ああ、なんという、気のきかない死にかたを選んだものか。ドストエーフスキイには縊死の苦しさがわからなかった。私は、はっきり眼を開いて、気の遠くなるのをひたすら待った。しかも私は、そのときの己れの顔を知っていたのだ。はっきりと、この眼に見えるのであった。顔一めんが暗紫色、口の両すみから真白い泡《あわ》を吹いている。この顔とそっくりそのままのふくれた河豚《ふぐ》づらを、中学時代の柔道の試合で見たことがあるのだ。そんなに泡の出るほどふんばらずとも、と当時たいへん滑稽に感じていた、その柔道の選手を想起したとたんに私は、ひどくわが身に侮辱を覚え、怒りにわななき、やめ! 私は腕をのばして遮二無二《しゃにむに》枝につかまった。思わず、けだもののような咆哮《ほうこう》が腹の底から噴出した。一本の外国煙草がひと一人の命と立派に同じ価格でもって交換されたという物語。私の場合、まさにそれであった。縄を取去り、その場にうち伏したまま、左様、一時間くらい死人のようにぐったりしていた。蟻《あり》の動くほどにも動けなかった。そのときポケットの中の高価の煙草を思い出し、やたらむしょうに嬉しくなって、はじかれたように、むっくり起きた。ふるえる手先で煙草の封をきって一本を口にくわえた。私のすぐうしろ、さらさらとた
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