とにだまされて、お金を無くする。そうして、女のひとにだまされるということは、よろこばしいものだとつくづく思った。女は、大学生から貰ったお金は一銭もわが身につけず、ほうばいの五人の女中にわけてやり、ばたばたと脛の蚊を団扇《うちわ》で追いはらって浅草まつりが近づいたころには、その食堂のかんばん娘になっていた。神のせいではない。人の力がヴィナスを創った。女の子は、せわしくなるにつれて恩人の大学生からしだいに離れ、はなれた、とたんに大学生の姿も見えずなった。大学生には困難の年月がはじまりかけていたのである。
その夜、歌舞伎座から、遁走《とんそう》して、まる一年ぶりのひさごやでお酒を呑みビールを呑みお酒を呑み、またビールを呑み、二十個ほどの五十銭銀貨を湯水の如くに消費した。三年まえに、ここではっきりと約束しました。ぼくは、出世をいたしました。よい子だから、けさの新聞を持っておいで。ほら、ね。ぼくの写真が出ています。これはね、ぼくの小説本の広告ですよ。写真、べそかいてる? そうかなあ。微笑したところなんだがなあ。約束、わすれた? あ、ちょいと、ちょいと。これは、新聞さがして持って来て呉れたお礼ですよ。まったく気がるに、またも二、三円を乱費して、ふと姉を思い、荒っぽい嗚咽が、ぐしゃっと鼻にからんで来て、三十前後の新内《しんない》流しをつかまえ、かれにお酒をすすめたが、かれ、客の若さに油断して、ウイスキイがいいとぜいたく言った。おや、これは、しっけい、しっけい。若いお客は、気まえよく、あざむかれてやってウイスキイを一杯のませ、さらにそのうえ、何か食べたいものはないかと聞くのである。新内いよいよ気をゆるし、頬杖ついて、茶わんむしがいいなと応え、黒眼鏡の奥の眼が、ちろちろ薄笑いして、いまは頗《すこぶ》る得意げであった。さて、新内さん。あなたというお人は、根からの芸人ではあるまい。なにかしら自信ありげの態度じゃないか。いずれは、ゆいしょ正しき煙管屋《きせるや》の若旦那。三代つづいた鰹節《かつおぶし》問屋の末っ子。ちがいますか? くだんの新内、薄化粧の小さな顔をにゅっと近よせ、あたりはばかるひそひそ声で、米屋、米屋、と囁《ささや》いた。そこへ久保田万太郎があらわれた。その店の、十の電燈のうち七つ消されて、心細くなったころ、鼻赤き五十を越したくらいの商人が、まじめくさってはいって来て、女中
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